実行委員会推薦枠による選抜出場を心待ちにする名護商工の選手たち。
前列左から3人目が古堅哲真主将、後列右が小菅爾郎監督
監督の小菅爾郎(こすげ・じろう)は降ってわいたチャンスにほおを緩める。
「負けちゃって、目標を冬の全国大会に切り替えていたのに、話が来た。びっくりしています。もし出られたら、楽しみ。このチームがどこまでやれるかね」
名護商工は、3月末に開幕する第18回選抜大会の実行委員会推薦枠(東、西日本で各2)の候補に上がった。
2007年、北部工と名護商が統合されてできた学校に春冬の全国大会出場実績はない。
2月、リーグ戦で行われた新人戦では、優勝した名護に12−31、準優勝のコザに10−14と県内2強に食い下がった。
名護は、選抜出場に向けての重要参考試合となる九州大会で、高鍋(宮崎)に8−51で敗れたものの6位になった。
今回の九州ブロックからの出場枠は6。東福岡(福岡)が前年度優勝ブロック枠を持ち帰ったため、例年より1増になった。その6枠に名護が入り、同じ市内にある名護商工が推薦枠に浮かび上がる。
商業科教員でもある小菅は、南西の島人の血統である柔らかな身のこなし、弾むような走りをラグビーに溶け込ませた。
「ようやくいいチームになってきました。でもね、まだ僕の指導が行き届いていない。名護にはキックカウンターだけで3本とられた。いいキックを上げてくれたんだけど、チェイスして、タックルする寸前に足が止まってしまいました。そこを向こうのいい選手にぐわーんと走られちゃった」
しかし、修正は完了した。主将のSO古堅哲真(ふるげん・てっしん)は話す。
「あのチェイスはばらつきがありました。負けてからそこは練習して、まとまって追っかけられるようになりました」
小菅は早稲田大学OBだ。
早大本庄(埼玉)でラグビーを始めた。ポジションはSO。大学では首を痛める。ドクターストップがかかったため、公式戦出場はない。ただし、左右の正確なキック、パスはレギュラーとそん色なかった。大学4年時の1989年度には主将・清宮克幸(現ヤマハ監督)らと大学選手権優勝を経験する。
そのトレーニングはアカクロが出る。
BKラインに3人が並び、パスを受ける前に全員が外に膨らみ、マークを外す。
22メートル間に3人が立ち、真ん中でボールをもらう時にワンダッシュ。早大では3人1組で「3人ヘッド」と呼ばれるが、ここでは、距離も半分以下と短い。1、2年生部員は20人と少ないため1人でやらせる。
小菅が学生時代の早大は、入試で入学した普通の選手を一流に育て上げた。そのノウハウを今、高校生に落とし込む。ラグビーが盛んでない沖縄は当時の早大と変わらない。自分自身の体験が生きる。
小菅には哲学がある。
「今はネットですぐに練習の仕方なんかが手に入るけど、僕は自分がやってみて、よかったものしか生徒には教えないんです」
基本的なパスはスクリューではなく、フラットを要求する。
「フラットならボールを受けて、手首を返せば放れちゃうでしょう。速くパスできる。それに、スクリューは受け手に食い込んでくるから取りにくいよね」
古堅は恩師を尊敬している。
「先生はすごいです。なんでも僕たちの前で手本を見せてくれます。セービングは雨が降って、ドロドロのグラウンドでした。僕たちは『負けてられない。やらなきゃ』と思います。昔の自慢なんかも一切しません」
小菅は大学4年の時に、沖縄に魅せられる。1982年から今も続く、名護への早大スポットコーチの一員としてこの地を訪れた。
「生徒に楽しく指導ができたし、保護者やOBなんかも、ものすごく歓待してくれて、いい人たちだなあ、と思ったよ」
感動は渡海を決意させる。
本田技研鈴鹿(現Honda)を退社後、1年間、早大でコーチをしながら教員免許を取得。1998年から教壇に立った。名護商、中部商を経て、2010年に名護商工に赴任。同時にラグビー部を立ち上げた。指導8年目となる。ダイナミックな動きが持ち味の早大NO8の宮里侑樹(2年)は教え子だ。
妻の千鶴は中部商時代の同僚。地元出身の国語教員だ。現在は北部農林に勤務。2人の間には小学4年生になる娘・愛(かな)がいる。もう「ウチナーンチュ」(沖縄人)と呼んでも差し支えないだろう。
古堅は、軽いニキビ顔をほころばせる。
「まだ、沖縄のトップになっていません。どこかでトップに立ちたいです」
春の選抜に出て、本土のチームとの対戦を重ねれば、実現の速度は上がる。
朗報が、春の東風(こち)に乗って飛んでくるよう、祈りと鍛錬を重ねていく。
(文:鎮 勝也)