(写真:1978年度、早大学院は國學院久我山を破って花園初出場を果たした)
背筋がピンと伸びていた。7月31日、早稲田大学大隈記念講堂 小講堂で開かれた『大西鐵之祐先生(元早大学院ラグビー部総監督、元早大ラグビー部監督、元ラグビー日本代表監督)の生誕100年を記念したシンポジウム』で最初に壇上に立った伴一憲先生は、故人の思想と情熱をきっかり1時間話した。
尊敬する人の残した言葉と自身の考えを重ねて話す時間は、まるでそこに大西先生がいるようでもあった。
伴先生が言った。
「わたしは84年間生きてきて、ひとつだけ良いことをしました。それは、大西先生の『闘争の倫理』を世に出す手助けができたことです」
聴衆の背筋も伸びた。
1916年4月7日、奈良県生まれの大西先生は、日本ラグビーに大きな影響を与えた人だ。早稲田大学第二高等学院に入学。大学ラグビー部に入部し、1937年に全国制覇を果たした(バックローでプレー)。
計3回、のべ9年間早大ラグビー部の指揮を執り、チームを何度も頂点に導く。日本代表監督としてもオールブラックス・ジュニア(1968年)を破り、イングランドに肉迫するなど(3−6)、桜のジャージーに輝かしい時代をもたらした。1995年に亡くなる直前まで情熱は衰えず、『展開、接近、連続』の理論はいまも錆び付かない。
今回のシンポジウムは、ただ想い出を持ち寄って、年配者の中でパス回しをするような故人を偲ぶだけの集まりではなかった。大西先生の教育者としての哲学、勝負師としての理論、態度を後世に伝えるのが目的だ。会場の前方、特等席が早大学院ラグビー部の現役生のために用意された。壇上の人たちのメッセージはすべて若者たちに向けられていた。
背筋をピンと伸ばして講演をおこなった伴一憲先生(撮影:松本かおり)
「教育者としての大西鐵之祐先生」と銘打って講演した伴先生は、早大学院学院長、早大学院ラグビー部部長を務められた方だ。伴先生は大西先生の根本経験は、若き日に経験した戦地にあるとした。
「大西先生はおっしゃっています。戦争は残酷であり、残忍で、人間を変えてしまう。人を殺す武器を与えられ、殺し合う状況に立ったなら、理性も何もなくなる。相手に憎しみも、殺す理由もないのに。そんなときに、ちょっと待てと言える人間がいなければ、どこまでも転がり落ちてしまうと」
大西先生は戦地から戻ると、教育者になることを誓う。リーダーの育成に生涯をかけた。
講演に続けておこなわれたパネルディスカッションでは教え子たちの口から、先生の信念を証明する言葉が聞かれた。
早大学院が花園初出場を果たしたときのSHで、大学でも指導を受けた佐々木卓さんは、高校入学直後に大西先生から言われた言葉を憶えている。
「先生は私たちに『君たちは何のためにラグビーをやるのか?』と尋ねました。みんな『試合に勝つため』とか『うまくなるため』と答えていたのですが、先生は『ナショナルリーダーになるためだ』と」
ラグビーだけではだめだ。勉強だけでも足りない。両方を徹底して追い求め、社会に貢献できる人間になれ。教え子たちは、そう理解している。
スポーツライターの藤島大さんがコーディネーター役となったパネルディスカッション、「大西先生のコーチング 弱小受験生チームがなぜ花園に行けたのか?」では、早大学院OBたちの記憶が現役学生たちにヒントを与えた。
大西先生は対戦相手が決まると必ず仮説を立てた。仮想敵を描くと、ポジションが決まる(各ポジションに求められるもの、選手選考)。戦法を絞り込む。そして勝負。
「伸びるパスも、長いパスもキックもできなかった。すばやくパスすることだけを求められた」という佐々木さんが、花園初出場の年(1978年度)のことを話した。
「春には50ぐらい練習していたサインプレーがシーズンが近づくと5つに絞り込まれた。そして決勝では、ついにひとつになったんです」
決戦では絞り込んだ5つのサインプレーにすらなかった、ラインアウトからのピールオフで勝負をかけた。都大会の決勝戦。早大学院は國學院久我山に9−6で勝った。奪ったトライはひとつだけ。ピールオフで相手SOを巻き込むと、久我山の防御ラインは反応良く幅を広げて守った。その間を早大学院の10番が真っ直ぐ走り、FWがサポートに殺到。トライラインをたった一度だけ越えた後は、タックルの雨を降らせて勝った。
同校の3度の花園出場のうち、2度(1987年度、1990年度)監督を務めた竹内素行さんも「先生は普通にやっては勝てないという試合では、過去のものはすべて捨て去った」と言った。
2度目の花園出場を決めた予選決勝。早大学院はスクラムからダイレクトフッキングされたボールをSOが拾い、ハイパント。ディフェンスのようなラインを敷いていたBKが一斉にチェイスする戦法を徹底して接戦をものにした。3度目の花園出場時の予選決勝時にはCTBでのキックが必要と、急遽CTBを入れ替えた。
「決勝まで行けるチームを監督、コーチが作る。決勝戦を勝たせるのが大西先生でした。そして先生はいつも、チームの緩みを一瞬にして見抜いた。『決勝戦を辞退しろ』と言ったこともあった」(竹内さん)
2度目の花園出場時にSHだった石島洋之さん(1988年卒/2度目の花園出場時のSH)も話した。
「先生は相手をギョッとさせろ、といつも言っていました。(高校生は)30分ではもとに戻れないぞ、と」
「人間・大西鐵之祐の愛情と情熱」と題されたパネルディスカッションの第2部には、日比野弘先生(早大名誉教授、元早大ラグビー部監督、元ラグビー日本代表監督)、渡邊隆さん(1981年早明戦FL)、安田真人さん(早大学院1980年卒/花園初出場時のFB)の3人が登場した。
三人三様に大西先生の魅力を語った。日比野先生は「どんなチームでも選手をやる気にさせ、信じ込ませ、ゴールまで持っていく凄さを何度も見ました。いつも愛情にあふれていた」と話し、安田さんは「大西先生の言う通りにやったらいつの間にか勝っていた。そんな不思議な感覚を覚えています」と言った。
ドスさんこと渡邊隆さんの大西先生への想いは特に熱を帯びていた。
受験雑誌、『蛍雪時代』に載っていた一枚の写真に惹きつけられてこのスポーツを志したというドスさん。ページの中で、泥だらけの15人が泣いていた。そんなラグビーの光景を見て、「全員が泣けるようなこのスポーツをやってみたい」と2浪して早大に進学した。しかしルールはよく分からない。大きくもない。赤黒ジャージーを着る夢はなかなか叶わなかった。
自身が4年生になったある日、サンケイスポーツを見て震えた。東伏見の寮のホールで見た同紙に、大西先生が自分について話した言葉が載っていたからだ。
「あいつはタックルせえと言ったら、いつまでもやる。あの情熱は素晴らしい。そう書いてあったんです。話したこともなかったのに。自分のような雑草のことを、雲の上の人が称賛してくれたと感激しました」
4年生になってもCチーム、Dチームをうろうろしていた初心者FL(高校では陸上、中学では相撲をやっていた)は、その言葉を励みに力を尽くして練習を重ね、当時週に一度おこなわれていたAチームとBチームの部内マッチに全身全霊をかけた。何度も何度も挑んだ末、勝った。人生でいちばん嬉しい勝利だった。
立教大戦で初めてファーストジャージーを着た。そして反対の声もある中、大西先生は早明戦のメンバーにも選んでくれた。「アイツはわしが死ねと言えば死による」と言って、周囲の声を黙らせたそうだ。それを聞いて感激した。
「どうして早大学院が激戦区の東京都を勝ち抜けたのか。どうして早稲田が最強と言われたFWの明治に勝てたのか。大西先生はそういうことを実現することで、人間という生命体の持つ偉大さ、不思議、可能性を示してくれたのだと思います」
ドスさんは若者たちに、「死ぬ気でやると言っても、そうできないことはあります。わい小な自分を知ったり、コントロールできない自分がいることに気づくでしょう」と話しかけ、自身が経験した決戦前の心境を伝えた。
「(早明戦前に)モビラートを太ももに塗りながら泣けてきました。いろんな挫折もあったけど、よくぞここまで耐えてくれたな、と。自分の太もも、筋肉がいとおしくなった。この体を授けてくれた両親に感謝しました。そして、その思いは先祖へ。もっとうまくなりたいというような欲が、やがて(勝たせてくださいという)祈りになり、そして感謝の気持ちに変わる」
いろんな話を続けた後、「仲間ができるスポーツです。ラグビーをやってよかったな」と若者たちに呼びかけた。
伴先生の講演が終わったとき、コーディネーターを務めていた藤島さんが現役生たちに向かって「この話を直接、目の前で聞けたきみたちは幸せだ」と言った。その後も大西先生の愛情を受けた人たちの言葉を通して、先生の愛、考え、理論が3時間にわたって彼らに届けられた。
早稲田大学高等学院ラグビーOB会の主催で実施された今回のシンポジウム。実行委員のひとりである冨樫正太郎さん(早大学院1991年卒)は、記念文集にこう記している。
「大西先生の教えの一つ、『ジャスティスよりフェアネスを』ということの重さ、偉大さ。これは勝負に執着しないということではなく、さらにその上の概念。いつの日か、これを遂行できていると堂々と言える人間(男)になりたい」
大西先生の思想を後世に伝えるために今回のイベントを企画したのだから、この言葉の最後は、後輩たちに向けて「これを遂行できていると堂々と言える人間(男)になれ」と言い換えてもいいだろう。そして彼らもまた、後輩に伝える。
学校や教室では教わらないことがグラウンドには、ラグビーにはある。
愛情を注ぎ続けた大西鐵之祐先生。何人ものリーダーを育てた
【筆者プロフィール】
田村一博(たむら・かずひろ)
1964年10月21日生まれ。1989年4月、株式会社ベースボール・マガジン社入社。ラグビーマガジン編集部勤務=4年、週刊ベースボール編集部勤務=4年を経て、1997年からラグビーマガジン編集長。