三重県立朝明高校を全国レベルに育てた監督・斎藤久が、4月1日付の定期異動で同じ県立の四日市工業高校に転出する。
3月30日に開幕する第17回全国選抜大会が同校での最後の指揮となる。
「選抜という大きな大会で身を引けるのはありがたい。有終の美を飾れればいいなあ」
今年50歳になる体育教員は破顔した。
異動の内示は3月9日に出た。背景には県内の高校ラグビー全体の底上げがある。
「朝明に来て24年目。近々そういうこともあるやろなあと思っていた」
公立校の教員は10年での異動が主流である。朝明赴任は1992年4月。異例の長期間の在籍は、ラグビーのみならず校内における存在感を示していた。
斎藤はしつけなどに携わる生徒指導部の部長を兼務する。朝明で9年目を迎える国語教員の稲垣愛には尊敬がある。
「斎藤先生がいなかったら、この学校は終わっています。例えば、昔は女子生徒のスカートの丈はこんな感じでしたから」
稲垣は太ももの付け根に指を当てる。
「先生は、制服の着こなしがなぜ大事か、周りから見られてどう思われるのがいいか、などをしっかり話して聞かせます」
高校生もいずれは社会の構成員になる。その時には自己ではなく周囲の評価が絶対になる事実を伝える。生きるために「必要」と思わせる服装や態度を取らすことに腐心する。
「怖いだけの先生はようけいはるけど、そこだけじゃない。大きな器を持ってはります」
斎藤は振り返る。
「結局は心を整えなアカンのよ。ラグビー部だけではダメ。学校全体を整えていかんとな」
その哲学は、全国大会県予選決勝で四日市農芸に5年連続負け続けた中(2000〜2004年)から生まれる。
「その時は喫煙や部員同士の暴力などいろいろな事件があった。でも、ラグビーがうまけりゃそんなことに目をつぶって問題のある部員を使っていた。勝ちたかったからな。ところがそれじゃ勝てんことが分かった。チームやそれを包む空気が悪いのに勝てるわけがない」
花園初出場は2005年度の第85回大会。赴任から14年の歳月が流れていた。そこから11大会で4年連続6回出場がある。
2007年には学校側の協力もあり、グラウンドを天然芝化する。週末には全国各地から高校が訪れる東海地区の一大拠点となった。
ラグビー部すらなかった無名の県立高校を全国レベルに高めた。
新チームは「史上最高」の呼び声が高い。
2月の東海大会では優勝した。東海ブロック選出のU18日本代表候補22人中、半分近くの10人を朝明が占める。
縦にも横にも動けるNO8芝弘太郎、相手の穴を突けるSO山田吏樹、ランニング能力に優れたFB森優太ら才能がそろう。
そのチームの行く末を見ることなく、離れて行く。胸中を長野・飯田監督の湯澤一道は推し量る。斎藤より4歳上の体育教員は異動を知り、すぐlineを送った。
「これからシード校、さらに上位を狙うのに十分な位置まで来ているのに無念だろうな、という思いと、岡谷のC、Dとやっていたチームをよくぞここまで、十分過ぎる足跡だな、という思いがあります」
湯澤は前任の岡谷工を県内ナンバー1の強豪に成長させ、その過程で創部当時の朝明に胸を貸した。
「ゆっくりだけれど確実に成長し続ける。だから決して壊れない。そんな組織を作り上げた手腕に感服しています。先生ほど内にも外にも多くの仲間を持つ指導者はいないでしょう。つくづく人柄だと思います」
感謝を踏まえ、斎藤は話す。
「チームが一番いい時に身を引くのがオレは綺麗と思っている。悪い状態で引き渡したら、『なんやねん』と思うもんな」
斎藤なりの美学が息づく。
4大会ぶり6回目出場となる選抜大会の予選リーグは、昨年度高校3冠の東海大仰星(大阪)、茗溪学園(茨城)、尾道(広島)と同じEグループに入った。
主将のSO山田は言う。
「先生のために勝ちたい。まだ恩返しをさせてもらっていません。目標である選抜ベスト8に入って、先生を送ってあげたいです」
斎藤はその言葉を受ける。
「オレのため、とかそんなんはいいんよ。そうじゃなくて、自分たちのよりよい未来のために頑張ってほしい。生徒には普段から『平常心で戦え』と言ってきた。最後までそれを貫いてほしいな」
母校、大阪体育大学の監督だった坂田好弘(現関西ラグビー協会会長)は「自分のためにラグビーをせよ」と言った。日本代表キャップ16を持ち、世界的WTBだった坂田は、楕円球を通しての個人的成長を説いた。
今、その内容は同じだ。
朝明の高校生と向き合った四半世紀。練磨された人間性を携え、斎藤は50歳からさらに挑む。
(文:鎮 勝也)