神戸市は2019年ラグビーワールドカップ日本大会の12開催都市の1つである。
その兵庫県の港町で3月10日、市内15の私立保育園から集まった約320人の園児の歓声が響き渡った。
市内北区にある、しあわせの村多目的運動広場の天然芝の上では、タテパスあり、ノックオンなしの鬼ごっこのような10人制のラグビーが行われていた。
銘打たれた「2015年度 第1回Kobeっ子親善ラグビー大会」の実行委員長は池上勝義である。
社会福祉法人あじさい会の理事長であり、須磨区内にある、あじさい、若宮両保育園の園長もつとめる。
「下が芝生だったのでいい感じでできました。大きなケガがなくてよかった。子どもたちがよろこんでくれて何よりでした」
57歳の元ラグビーマンは目を細めた。
その球歴は本物だ。
大阪・浪商(現大体大浪商)で高2から全国大会に連続出場する。55回大会(1976年)はWTB。2回戦で函館北(南北海道、現市立函館)に14-25で敗れた。FLに上がった56回大会では同じく2回戦で、決勝に進出する京都・花園に4-18で敗退する。
その後の進路は中京大を選ぶ。大学では体育の教員免許を取得。卒業後は、運動能力テスト実施や鉄棒や床運動など体育全般の授業を請け負う会社を設立。10年前、あじさい保育園の園長に就任する。
その中で小学校に上がるまでの幼児に体験させるスポーツとしてラグビーを薦める。
「サッカーやったら足しか使われへんし、左右で蹴れんといけません。園児にとってはやりにくい。でもラグビーは手で持って走れるし、難しさはない。小さい子どもにはいいんやないかな、と思います」
性格形成の上でもアドバンテージを見つけている。
「人数がいるから、仲間を集めんといかん。そして、仲間を思い遣らんといけない。体をぶつけるから『やるぞ!』という強い意志も必要ですしね」
池上は年中組(5歳)、年長組(6歳)の大会決勝戦2試合で笛を吹いた。
古き良き時代のタッチジャッジ(現アシスタントレフェリー)スタイルで臨んだ。
「魂」(たましい)の黒いフェルトが左胸に入った浪商伝統の白い練習ジャージー。その上には紺のブレザーを羽織る。下は黒の短パン。白ストッキングの折り返しは黒だった。右ヒザには黒いメッシュのサポーター。
「半月板と前十字じん帯がないんです」
足の装具は真剣にラグビーに向き合った勲章でもある。
池上は浪商監督だった久保正道(故人)に鍛えられた。日本体育大出の体育教員はラグビー部を全国に鳴り響く名門にする。180センチ近い長身、丸刈り、サングラスの下の細い目、甲高い叫び声…。義理人情の世界に生きる人間に似ていたことや恐怖心から部員たちは「ヤーコ」と呼んだ。
久保は日体大での猛練習を部員たちにそのまま課した。池上はそのしごきに3年間耐える。エピソードには事欠かない。
「花園で府大会の準決勝がありました。相手はキンコウ(近畿大学附属)。40点差つけて勝ったのに、試合後、レギュラーは学校まで走って帰らされました。『最後の5分が気に入らん』という理由でした」
東大阪市にある花園ラグビー場と当時、茨木市にあった学校までは20キロ以上あった。試合に出ていた池上はカバンなどを下級生にあずけると、2時間近く走り続け、ゴールにたどり着いた。
「そうしたらランパス。エンドレスでした。試合に大差で勝っているのにですよ」
5人ほどが横一線に並び、両インゴール間100メートルをパスしながら走るランパスは、昔のラグビーにおける猛練習の代表格だった。全国優勝5回の東京・目黒(現目黒学院)も同じ「しぼり」があった。目黒監督の梅木恒明(故人)と久保は日体大の同期である。
「でもね、あの久保先生のラグビーがあったから、今の自分がある。あのしんどさを思えば、社会に出てからのことは、どうってことないですよ。あの厳しさをくぐり抜けたことが、今の仕事に反映されていると思います」
池上は今のラグビーブームを喜ぶ。
「ジャパンが去年、ワールドカップで南アフリカに勝って、燃えるものがある。機運が高まっていますよね」
その熱狂にこの大会も乗っからせたい。
「これからも当然続けて行きたい。いろいろな方々の協力を仰ぎながら、神戸の名物になるようにしたいですね」
すでに、神戸市や県ラグビー協会を後援に巻き込んでいる。副市長の玉田敏郎は「五郎丸ポーズ」で大会の蹴り始めをした。県ラグビー協会理事長の松原忠利も駆け付けた。初めてにしてはその流れは強い。
高校時代に学んだ不屈の精神で池上は、ラグビーを使って、園児たちの明るい未来を支えていく。
(文:鎮 勝也)
【写真】 「2015年度 第1回Kobeっ子親善ラグビー大会」の実行委員長、池上勝義さん