58歳の高見澤篤は立命館大学ラグビー部のOBであり、副部長でもある。
仕事は薬学部事務長。学部の事務方トップとして、グラウンド所在地と同じ滋賀・草津キャンパスで職員として働いている。空き時間を使ってクラブ活動に参加する。
「立命ラグビー部のいいところは、学生を大切にしているところかなあ。結果ももちろん大事だけど、チームの方針は学生の成長に重きを置いています」
主将を決めるのに2か月近くかける。まず新4年生で素案を出させ、その上で監督・中林正一らを交え話し合う。学生の希望を聞きながら、起こりうるさまざまな事象を想定した上で合意する。監督からの強制はない。
「学生と対話する、というのが習慣づいています。中林監督になってから個人の面談、ポジションごとやチームミーティングはそれこそ毎日。頻度、長さは他のチームと比べてもかなりのものだと思います」
昨年、「春先には入替戦を覚悟した」という中林の予想に反して、関西3位に入った。教える側と教えられる側の風通しのよさが成績につながったことを示している。
高見澤は1958年(昭和33)1月2日生まれ。埼玉県立熊谷高校でラグビーを始めた。7年先輩に1989年、スコットランドから28-24で金星を挙げた日本代表元監督の宿澤広朗(故人)がいる。
立命館ではPRだった。チームの要請で5年目に学生コーチに就いた後、製造業に就職した。OB会からの要請もあり、1989年11月、母校に職員として戻る。翌1990年からコーチ。1996年〜1998年の3年間は監督もつとめた。1999年から現職となる。
学生時代も含め、立命館と関わるのは32年目になる。副部長としては18年目。その業務は多岐に渡る。学生の単位取得の指導、就職支援、安全性推進、高校生のリクルートなどである。
トヨタ自動車で監督や副部長をつとめた平井俊洋は役職にある時、年下で教授でもない高見澤を「先生」と呼んだ。
「あんなにフェアな人は珍しい。就職の話で飲み食いをしたとしても、必ず『折半にしましょう』と言ってくる。職員だろうがなんだろうがオレは『先生』と呼ぶよ」
2015年度のトヨタには立命館OBとして現役にLO谷口智昭、FL槙原航太の2人。スタッフにディフェンスコーチの奥野徹朗、採用の曽我部匡史、馬場美喜男がいる。
立命館ラグビーと長きに渡り関わってきた高見澤だが、その間、悲しく、つらい時期があった。
2002年8月15日、北海道・北見合宿中に一年生部員のPR小林由展が急死した。スクラム練習中に脳内出血で倒れる。埼玉工業大学深谷高校(現正智深谷)からの初部員や同県人だったこともあって高見澤はショックに打ちひしがれる。
「きつい練習にも黙々と取り組む子でした。185センチで125キロくらいあって、将来はジャパンにさせたいね、とみんなで話していた。高校にはお百度を踏んで、ウチにきてもらいました。『こんなことがあってもいいのか』と思ったものです」
チームは事故の再発防止を誓う。
医師と同様、人体解剖などにも立ち会うNATA(全米アスレチックトレーナー協会)資格を持ったトレーナーの常駐、合宿中に現地在住の医師による内科検診などである。副部長の職務に安全対策が加わったのはこの頃からである。
高見澤は今も年数回の墓参りを欠かせない。祥月命日には遺族らと深谷市の墓所に足を運び、絶命時刻となった午前8時36分に手を合わせる。関東在住のOBも参列する。
「立命館ラグビーの成長が彼の供養になると思っています」
高見澤は自身の人柄を知る人々らに推され、2012年に関西大学ラグビーリーグのトップ、委員長に就任する。これまでは各チームの監督が就いていたが、「強化とは一線を引き、リーグ全体の繁栄を考えられる人物」という点から高見澤が初選出された。今年で5年目を迎える。昨年度まで関西学院大学監督だった野中孝介は話す。
「高見澤さんには頭が下がります。一昨年、ウチが優勝した時も熱い『おめでとうメール』を下さいました」
強化策の一環として、昨年4月にはNZU(ニュージーランド大学クラブ代表)を大阪・花園に呼び、関西学生代表と対戦させた(19-40)。契約により関東の大学との試合のみだったチームを関西に引っ張る交渉は主に高見澤が行った。
それでも関東との実力差は大きい。52回になる大学選手権優勝は1982〜1984年度に3連覇した同志社大学のみ。4月の新年度から出場14チームに削減される選手権の枠は関東8に対し、関西3の公算が強い。
「なんとかして高いレベルで力を接近させたい。そして、関西から大学チャンピオンを出したいですね」
そのため新年度に打つ策も温めている。
大学の枠組みを超えて、地域の強化を図る高見澤。事務長、副部長、委員長として、その忙しさが報われる日が来るのを心待ちにしている。
(文:鎮 勝也)
【写真】 立命館大副部長で関西大学リーグ委員長でもある高見澤篤氏