2015年シーズン、トップリーグと日本選手権優勝の2冠を達成したパナソニックワイルドナイツの飯島均部長に聞く第二弾。今回は初の日本チーム、サンウルブズが参加するスーパーラグビーを含め、今後の日本ラグビーの展望を語ってもらった。
パナソニックは今回のトップリーグ3連覇を含め、2003年のリーグ発足から13年目で4回の優勝を飾りました。今後、リーグはどういう方向を模索するべきでしょうか?
私は部長会議にもトップリーグ運営の中心である幹事社会議にも参加しています。10年程前からリーグは本格的にプロ化せざるを得ない、と思っています。
プロ化とは専門化、深化、責任の明確化です。
ラグビーのプロ化は野球なんかの何億という年俸のイメージとは異なります。年収的に億単位の額を稼いでいる日本人ラグビー選手はいませんが、今のトップリーグの選手たちは、一年のほとんどをラグビーをして過ごしている。そういう意味ではプロと呼んで差支えないと思います。外国人コーチや選手はもちろんプロ。早急にプロ化しなければならないのは我々マネージメントや統括(機構や協会)部門だと思います。
「世界と互角に戦う」ことだけを考えれば、ざっくり考えて規模的には5〜6チーム。8チームはいろいろな面で少し多いと思います。それでホーム・アンド・アウェイ方式でやる。
ラグビーのプロ化は、企業スポーツとしての日本社会での役割もあり難しい問題です。
そうなると興業として成り立ちますか? 野球は基本的に週に6日、サッカーは世界的な市場があります。それに比べるとコンタクトが多く、疲労回復に時間がかかり、週に1回しか試合のできないラグビーはプロとして成立するのは難しいのでは。
私は先日、香港に行きました。そこでハイランダーズ(スーパーラグビー)やラシン92(フランス1部トップ14)の要人に会いました。
ラシンは1週間近く、ファンを呼んでパーティーをしていました。各テーブルには選手やファンドのマネジャーとファンが座り、交流を図る。チーム所属のダン・カーター(ニュージーランド代表SO)のジャージがオークションにかけられ、日本円で100万以上で落札されていました。その連日のパーティーでは大きな収入があったようです。
「いろいろお金を集める方法があるのだなあ」と感心しました。ゲームによりかかるだけではなく、お金を作る方法を考える。
ラグビーはイギリスの貴族の教育的なスポーツとして始まった。だから、ウエスタンの人間にとってラグビーは茶会(サロン)の意味合いもある。経済的にも階層的にもいい人たちがコミュニケーションの場として使う。それを利用して、興業的なデメリットを克服できないか、と考えています。
当然、プロ化すれば大株主になる当該企業のリスクは少なくして、メリットを多くしないといけない。そのためには今の採用方針とは真逆の発想で考えることは出来ないでしょうか。
具体的にはどういうことでしょうか?
入り口をプロにして、出口を社員にする。プロとして入社をさせ、成果や一定の成績(業務を行う上でのベースとなる学力等)を上げた人間は現役引退後に正社員として採用する。
現役中には、ラグビーだけでなく、簿記やTOEFLやTOEICなど英語資格の取得を奨励する。オフ期間は社業研修も受けさせ、業務にもつかせます。各チームに社内規定をもうけ、クリアした者は引退した30歳、35歳の段階で雇用する。
こうすれば会社としては、選手を終身雇用でかかえるリスクは減らせ、即戦力の企業人を持てるメリットが出てきます。選手たちはセカンドキャリア育成にもつながる。企業がプロ化を拒む理由は少なくなります。
そういうラグビー独自のプロ化は、私はあると思っています。
今回のスーパーラグビーの日本チーム(サンウルブズ)参戦をどう見ていますか。また成功に必要なことはなんですか。
私は2年前、スーパーラグビー参戦の話がトップリーグの部長会議で出た時に、16チームの中で唯一強く反対しました。財務的な基盤の脆弱さなど、時期尚早だと判断したからです。でも参戦が決定してからは、私が一番協力している(笑)。意見を言っても、決まったら、それに従うのが組織人です。フェイズは変わってしまった。だから次はどうやるか、です。
決まった以上、スーパーラグビーを統括するSANZAARや世界のラグビーをとりまとめるWorld Rugbyに人材を送り込まねばならない。成功するために一番大切なのはここでしょうね。
スーパーラグビー参戦はワールドカップと同じで、国同士の戦争に加わる、という意味です。つまり戦って、勝って、権利を主張していかないといけない。昨年のイングランド大会で南アフリカを破って、いい流れができてきた。この流れに乗って、組織の活動や情報収集を日本人自らが行い、政治的な部分にも加わらないといけない。日本人が苦手なロビー活動(私的な政治活動)も必要でしょう。傷の表層の部分をいじっても一緒です。中に入っていかなければ。現場だけで勝つのはありえません。
今回、カンファレンスが南アフリカのグループ(アフリカ1)に入りました。地域的に最大10時間程度で行けるオーストラリアやニュージーランドではなく、飛行機の乗り継ぎを含めると20時間はかかります。7時間と時差も大きい。
これのグループに入るのはおかしい。誰もが思っていることでしょう。私個人的には、150年前の江戸時代における諸外国との不平等条約(関税自主権なし、外国人に対する治外法権あり)のような感じがしています。平等の世界にはなっていない。
だから、私たちの中からタフ・ネゴシエーター(手強い交渉者)が出て来て、次の世代によりよい日本のラグビーを渡していかなければなりません。そのためにも、それらの運営組織の中心に日本人が入っていかないといけません。
生意気なことをあえて言いますが、私はパナソニックが強くなることによって、日本のラグビーをよりよい方向に導いていきたいのです。ロビーさん(ディーンズ、パナソニック監督)はそのことを賛成してくれている。
ロビーさんはワラビーズ(オーストラリア代表)の監督にはなりましたが、母国のオールブラックス(ニュージーランド代表)の監督にはなれなかった。スーパーラグビーで7度優勝(ヘッドコーチとしては5度)の世界一の指導者が、生まれ育った国での王道の夢、「オールブラックスで世界一へ」を心に秘め、「世界のラグビーを変える」というチャンスが、この日本にはある。そう考えてくれていると私自身は思っています。
スーパーラグビーには田中史朗選手がハイランダーズ、堀江翔太選手ら4人がサンウルブズに参加しています。パナソニックが積極的に海外に選手を派遣する理由は?
私は、「世界と戦えなければ、そのスポーツはマイナーではなく、超マイナー」という持論があります。超マイナーになれば社会から認知されなくなってしまう。選手を積極的に海外に送る理由はそこです。いわば武者修行。選手に異国でのラグビーの経験をパナソニックや日本のラグビーに落とし込んでもらう。そして、その衰退を阻止するためです。
さらには、プロ契約しているいい選手をマーケットにおける適正のサラリーでチームが維持する、という点もあります。1つの日本チームで選手の望む年俸を与えるのは、今は難しい。チームの利と個人の利をリンクさせる上でも、海外挑戦は必要なことと考えています。
1月31日、第53回日本選手権の朝、飯島は東京・秩父宮ラグビー場のチームブースに午前9時過ぎから立っていた。午後2時の試合開始に先立つこと5時間以上も前である。
目撃者の北畑幸二は日本協会普及・競技力向上委員会の小学生担当責任者である。
「飯島さんはすごい。パナソニックの現場の最高責任者が自ら、あんな早い時間から、ブースに立って対応をしているんだから」
北畑は、パナソニック対帝京大のカーテンレイザー(前座試合)として行われたラグビースクールの「FOR ALL ミニ・ラグビーフレンドリーマッチ」に立ち会っていた。
飯島は照れ笑いを浮かべる。
「みんなで1台の車で来た方が、交通費は安く上がりますから」
真実はほかにあった。
「いや、あそこに立っているといろいろな問題点が見えてくるんです。例えばファンサービスはもう少しこうした方がいい、とか。責任者である私が感じた方が、下から問題が上がってくるのを待つよりも解決は早い。それに本当のこと、実際起こっていることが分かる。やはり、現場にいるのは大切です」
飯島は、この日本選手権とトップリーグプレーオフ決勝に、バドミントンの元日本女王、北田スミ子(現姓芝)を招待していた。北田は全日本総合選手権女子シングルスで女子史上最多8回の優勝を誇る。
飯島と北田はそれぞれ前身である三洋電機のラグビー部とバドミントン部に所属していた。グラウンド、体育館と場所は違ったが、共に同じ会社のために技を磨き合った仲間を30年が経過した今でも大切にしている。
「飯島君はいつも、ものすごくいい席に座らせてくれる。メインスタンドの中央。前には社長が座っていた。ありがたいよね」
北田の声は弾んでいた。
現在は結婚して、授かった一人娘を大学生に育て上げた。平行して日本バドミントン協会の理事をつとめている。
パナソニックが来シーズン、社会人連覇を4に伸ばすかどうかは誰にも分からない。勝負事であり、東芝、ヤマハ発動機、神戸製鋼など他チームの追い上げもある。
それでも、ただ1つはっきりしていることがある。それはパナソニックには人物がいる、ということである。
◆飯島 均(いいじま・ひとし) 1964年(昭和39)9月1日生まれ。51歳。現役時代はFL。東京都立府中西高から大東文化大を経て1987年に三洋電機に入社。現役時代は日本選抜(代表の下のカテゴリー)。1996年に現役引退。2003年W杯では代表FWコーチ。2期7年の三洋電機監督後、部長に就任。2011年、会社はパナソニックの傘下に入るが、その間も含め部長として6年目を迎える。
(取材・構成/村上晃一、鎮勝也)