6月5日(金曜)の夜、京都駅近くの中華料理店「清華園」でのラグビートークライブが開催された。伏見工業高校ラグビー部出身の清水悟さんが経営するこのお店は、中華料理店だが、ラグビーパブのような内装になっている。昨年からは伏見工業出身の選手を中心に筆者の進行によるトークライブを開催している。今回のゲストはトヨタ自動車ヴェルブリッツの北川俊澄選手だった。小学5年生で「南京都ラグビースクール」に入団し、中学では日曜日のラグビーを優先しながらサッカー部に所属した。伏見工業高校では2年時に全国高校大会準優勝、関東学院大学では2年、3年時に学生日本一に輝いている。
195?、110?というサイズで骨惜しみなく動き回り、トヨタ自動車では2013年にトップリーグ100試合を達成。日本代表としても、2011年のラグビーワールドカップ(RWC)に出場し、43キャップを保持している。トヨタ自動車では、13年目のシーズンを迎える。これはトヨタ自動車では現役最年長記録で、廣瀬佳司さん、難波英樹さんといったレジェンドも12年で引退していた。北川選手は、同期のSH麻田一平選手と2人で初の13年目に突入するわけだ。そんな北川選手がラグビーを始めた頃から現在までのさまざまなエピソードを語った。無口なイメージがある北川選手の軽妙なトークに客席は爆笑の連続となった。
――ラグビーを始めたきっかけは。
「僕は小学生の頃から身体が大きくて、短気だったから、親がとにかく激しいスポーツをやらせようとしたようです。このままヤンキーにはならないでくれということですね。ラグビースクールに無理やり入れられました」
――その頃の身長は。
「小学6年生で176?です。ランドセルがパツパツで入らなくなってリュックサックで学校に通いました。横にも太くて、90?くらいあり、ジャイアンとかデブ子って言われていましたね」
――中学ではサッカー部だったのですね。
「ラグビー部がなく、高校でラグビーを本格的に始めるステップとしてサッカー部に入りました。最初はディフェンダーだったのですが、走るのがしんどくてゴールキーパーに。中学3年で身長は185?ありました。これは遺伝だと思います。父が180?で母が171?。牛乳も飲まなかったし、もりもり食べるタイプでもなかったですから」
――トヨタ自動車ラグビー部は二輪が禁止だそうですね。
「万が一、事故があってはいけないので原付もダメです。ただし、自転車はいいので乗っています」
――北川選手が乗れる大きさの自転車あるのですか。
「自転車ショップに行って、僕に合う自転車はありますか?と聞いたら、『この2台しかない』と言われました。その一つのブランドが『ジャイアント』で(客席、笑)、さすがにそのまんますぎるので、もう一つのを買いました。鍵をせずに置いておいても盗まれません。誰もペダルまで足が届かないですから(笑)」
――伏見工業高校に入ったのはなぜですか。
「京都でラグビーをするなら伏見工業というイメージでした。それで中学3年生の時に練習を見に行ったら、山口良治監督から熱い手紙をいただいて、決心しました」
――どんな内容だったのですか。
「忘れちゃいました(客席、笑)。熱かったことだけ覚えています」
――高校に入学してからの練習はどうでしたか。
「ほんとにきつくて初日の練習で足腰が痛くなって、フラフラでやっていたから、『コイツは使い物にならない』と思われていたと思います」
――辞めなかったのはなぜですか。
「山口先生が『お前は高校日本代表になれる』と言ってくれたからです。たぶん、体が大きかったからだと思いますけど(※高校1年生で、身長193?)。日々成長し、高校日本代表に向かって進んでいる実感はありました。毎日、練習で力を出し切って、家に帰ると玄関で眠ってしまうこともありました。それでも若さですかね、次の日には疲れはなくなっていて練習できるのです」
――山口先生(高校1、2年生時の監督)、高崎利明先生(高校3年時の監督)には、どんなことを学びましたか。
「山口先生はラグビーを楽しむことと人間性の向上ですね。高崎先生はラグビーのスキルを細かく指導してくださいました。いろんな教え方があることを高校時代に学べたと思います。人間性の部分で言えば、山口先生は『親に練習着を洗わせるな、自分で洗え。おにぎりを握ってくれること、試合を応援に来てくれること、そういうことに感謝しなさい』と毎日のように言われました。だから自然と親に感謝するようになったと思います」
――では、練習着は自分で洗っていたのですね。
「洗ってないです(客席、爆笑)。いまでも親に『あんた、全然、洗わへんかったな』と言われます。でも、洗っていただいていることに感謝して練習していました(笑)」
その後、話は高校、大学時代のさまざまなエピソードに。関東学院大学ラグビー部は「楽しくラブグビーをする」がモットー。試合前には常に涙を流していた高校時代からは考えられない雰囲気だったが、その中で学生日本一になるなどチーム強化の違ったアプローチを体感した。そして、トヨタ自動車へ入社する。
――13年目のシーズンですね。
「麻田一平と並んでチームで最年長になりました。行けるところまで行くのが僕のモットーです。チームに必要とされるなら、ずっとやり続けたいと思っています」
――背番号は「5」が多いですね。
「ジャージーをもらうとき、5番だとしっくりくる。なんというか、5番(右ロック)のほうが、ザ・ロック、という感じがするのです」
――5番の選手のほうが4番の選手より一般的に身体が大きい。これはなぜですか。
「スクラムはFW第一列の3番(右プロップ)に相手の重さがずしりと来ます。3番は相手の1番と2番に押されますから。だからこそ、その後ろで3番を押す5番も大きさが必要なのです」
――北川選手にとって押しやすいお尻というのはあるのですか。
「トヨタだと、引退されましたけど豊山昌彦さんですね。あの人は押しやすかったです。背中が真っすぐでお尻がどしっと安定していました」
――最近の日本代表では。
「畠山健介です。あのお尻と僕の右肩の相性は抜群です!(客席、爆笑)」
――昨シーズンのトヨタ自動車はスクラムでは苦しみましたね。
「僕のラグビー人生であんなに苦しいスクラムは経験したことがありません。でも、今季は南アフリカから元南ア代表プロップのオス・デュラントが、スクラムコーチとして来てくれました。もう8年もウエイトトレーニングをしてないそうですが、僕よりも身体が分厚い(笑)。たとえるなら自動販売機みたいな体です。『首のないのが、いいプロップだ』と言っていました(笑)」
――北川選手には反則が多いイメージがあります。自分ではどう思っていますか。
「僕はイライラしやすい。あとで録画を見て愕然とすることが多いです。昨季、パナソニックと対戦した時に、彼らはすごく冷静に戦っていました。それを見て自分も34歳だし、これくらい冷静にならなくてはいけないと痛感しました。実は反則数の多さはコーチからいつも指摘されています。今年は減らしたいと思っています」
今季のトヨタ自動車ヴェルブリッツは、昨季までFWコーチだった菅原大志氏が監督に就任し、吉田光治郎キャプテン(27歳)、滑川剛人(25歳)、彦坂圭克(24歳)というバイスキャプテンがチームを引っ張る。若い選手が軸になるチームのなかでも、ベテラン北川俊澄の力はまだまだ必要だ。今季のトップリーグでもFWの核として奮闘するのは間違いないだろう。最後に、日本代表への思いも語ってくれたので書き記しておきたい。
――9月のRWCを前に自分が日本代表にいないことは悔しいのではないですか。
「まだ呼ばれる可能性はあると思っています。明日来てくれと言われれば、すぐに行きます。ほんとうに行きたいんです。2011年のRWCしか経験していませんが、いろんな後悔があります。今度参加できれば、その後悔を減らせる可能性がありますよね。RWCの雰囲気は特別です。こればかりは行かないと分からない。選手ならRWCを目指すべきだし、ぜったいに経験したほうがいいと思います」
――過去のRWCで日本代表はまだ1勝しかあげていません。RWCで勝つことの難しさを痛感されたと思います。
「2011年はトンガとカナダには絶対に勝てると思っていました。トンガには4年間一度も負けたことがなかった。でも、トンガは本気のメンバーで戦っていなかったのです。本番では倍くらい強かった。それを経験として知っていることが大事です。僕も本番では強さが違うと聞いてはいましたが想像以上でした。本番で初めて体感するとショックが大きいのです。今の日本代表は強いチームと定期的に試合をしてきましたので、いい経験が積めている。その経験を持つと多少相手が強くなっても対応できるのです。まずは、初戦の南アフリカ代表と、どこまで戦えるのか楽しみですね」
【筆者プロフィール】
村上晃一(むらかみ・こういち) ラグビージャーナリスト。
京都府立鴨沂高校→大阪体育大学。現役時代のポジションは、CTB/FB。86年度西日本学生代表として東西対抗に出場。87年 4月ベースボール・マガジン社入社、ラグビーマガジン編集部に勤務。90年6月より97年2月まで同誌編集長。出版局を経て98年6月退社し、フリーラン スの編集者、記者として活動。ラグビーマガジン、ナンバー(文藝春秋)などにラグビーについて寄稿。J SPORTSのラグビー解説も98年より継続中。99年、03年、07年、11年のワールドカップでは現地よりコメンテーターを務めた。著書に、「ラグ ビー愛好日記トークライブ集」(ベースボール・マガジン社)3巻、「仲間を信じて」(岩波ジュニア新書)などがある。BS朝日「ラグビーウィークリー」にもコ メンテーターとして出演中。