1989年5月、日本代表の宿澤広朗新監督が、宣言どおりにスコットランドに勝利し、日本ラグビーは盛り上がりをみせていた。
ラグビーファンの願いは、翌1990年4月に東京で開かれる、日本代表にトンガ、韓国、西サモアを加えた、4か国総当たり方式のラグビーワールドカップ(W杯)・アジア予選を、ジャパンが突破するという一点にあった。その予選で、日本は初戦の相手トンガに勝ち、2試合目に当時実力伯仲の力関係にあった韓国戦を迎えた。
名実共に日本ラグビーの盛衰のかかったこの試合は、午前中の嵐が去った午後の晴れ間の中で行われた。秩父宮ラグビー場の観客席には、水曜日の午後というのに、居ても立ってもいられない気持ちで、職場を抜け出てきたに違いない大勢のビジネス服姿の観客で埋まっていた。試合は、韓国に10点を先制されたものの、後半に入ると、日本が逆転し、26-10の勝利を収めて、1991年W杯の出場を決めたのだった。
個人的には、1991年ラグビーワールドカップの前年の年末から、筆者はラグビーマガジン誌に国際ラグビーコラムと銘打った『トライライン』の連載が決まり、本格的にラグビージャーナリストとしての一歩を踏み出した。
年が明けて国内シーズンが終わると同時に、コラムとは別に、海外のワールドカップ出場15か国を紹介する記事の連載を始めた。それまで蓄えて来た得意分野である世界ラグビーのもろもろ知る所を、吐き出す場を得たわけである。
W杯の本大会前にラグマガから発刊された「1991年W杯のプレヴュー増刊号」にも出場国を紹介する記事を書いているが、前述の本誌に執筆した記事は使い回しせずに、すべて新たに書き下ろした。気の遠くなるような作業だったが、購入してくれる読者に喜んでもらえるように、どうしてもそうしたかったのである。
海外で出版された’91年W杯のプレヴューを含めても、選手リストに年齢、身長、体重が載っているのはこのラグマガ増刊号だけ。インターネットのない時代に、筆者の収集したデータを利用したラグマガ増刊号の選手リストは、海外のラグビー記者からも関心を集めたという話をあとで知った。
筆者が’91年大会を現地で観戦したのは準決勝から決勝までの4試合である。準々決勝までの試合は日本でテレビで観ていたわけだが、ジャパンの試合でワクワクさせられたのはアイルランド戦の後半、左タッチライン沿いのWTB吉田義人の快走からFL梶原宏之のトライというシーンだ。試合は、16-32のスコアで、善戦ぶりは讃えられる。もう少し出来た感じもあったが、勝負どころでアイルランドに2本のスクラムトライを許した場面では、相手の底力にズシンと衝撃が走った。
もうひとつの印象に残るプレイが、スコットランドのCTBスコット・ヘイスティングスの突進を、体当たりでタッチの外へ弾きとばし、トライを阻止した朽木英次の好プレイである。この試合のレフェリーを務めたイングランドのエド・モリソン氏からは、来日時に、こんな話を聞いている、
「あのプレイは厳密に規則を適用すれば、朽木英次はショルダーチャージ(ノーバインド)でペナルティーをとるのが正しい。けれども、186センチ、90キロ超のヘイスティングスと朽木のサイズを比べたら、杓子定規に反則をとることよりも、むしろ朽木の勇敢なナイスプレイを評価することの方が、ラグビーにとってプラスの意味があるはずだ、あのときわたしはそう判断して、ペナルティーではなくタッチの判定を選んだ」
日本のW杯唯一の勝利であるジンバブエ戦は52-8、日本が大会最多の9トライを奪っており、一方的な日本ペースの試合との印象が頭にあったのだが、後にビデオをみなおして記憶のいいかげんさを思い知った。前半は日本がハンドリングミスをし続け、ブツブツと試合が途切れイライラが募る。流れが良くなって得点を積み重ねるようになるのは後半のなかばを過ぎてからなのだ。
’91年大会では、W杯に初出場した西サモア(後にサモア)がホームのウエールズを敗ってベスト8へ進み話題をさらった。しかし、準々決勝では、そのサモアをスコットランドがキックオフから圧倒して、伝統国の凄みをみせつけている。
この大会にサモアのWTBとして出場した19歳のブライアン・リマは、2007年フランスW杯まで、世界でただひとり5大会への出場を果たしている。この大会で、「あとはも少し背が欲しい」と、長身選手がいない点が泣き所とされたサモアだが、いつのまにか普通に長身選手がゴロゴロいるチームになったのは不思議な気がする。
一方、フランスが試合会場のプールBで、イアン・バートウェル監督率いるカナダが、フランスには敗れたが、フィジーとルーマニアに勝ってベスト8に入ったのは立派。カナダは準々決勝でNZオールブラックスと対戦し、13-29(トライ数2-5)とまずまずの善戦をした。あらためて前大会のチャンピオン、NZの衰退ぶりを感じさせた試合でもあった。
さて、準々決勝のハイライトは、アイルランド対オーストラリア戦と決めて、異議はないはずだ。終盤、残り時間5分、アイルランドのFLゴードン・ハミルトンのトライ(ゴール)で、18-15と逆転したアイルランドの快挙に、興奮した地元観客が、フィールドになだれ込むのだが、まだプレイが続くと知って、アッという間に行儀よくスタンドに引き上げるシーンが微笑ましかった。
ところが、歓喜の直後、相手のオーストラリアは、ループを使ったプレイからデイヴィッド・キャンピージが突破し、ゴール前でつかまえられながら、内に返したボールのバウンドするところを、走り込んで来たSOマイケル・ライナーがキャッチし、アイリッシュたちのハートを打ち砕く、かの有名な逆転トライを決めてしまうのである。
このあと、準決勝スコットランド対イングランド(エディンバラ)、アイルランド対NZ(ダブリン)、3位決定戦スコットランド対NZ(カーディフ)、決勝イングランド対オーストラリア(トゥイッケナム)を観に行くのだが、旅行の計画は1年以上前から準備を進めていた。リーズナブルな旅行費用で観ることの出来た1987年W杯とは違って、’91年大会になると、観戦ツアーの代理店が指定され、チケットとホテルをセットにしたツアーの価格は、懐にこたえる額に上昇していた。
そこで役立ったのが、1988年にNZの専門誌『ラグビーニュース』が募集していたオールブラックスのオーストラリア遠征観戦ツアーに参加したときの経験である。’91年W杯では、最も旅費が割安だった英国の大会公式旅行代理店が募集していた、海外客向けの観戦ツアーに加わって出かけることになるのだが、その話を含めて次回は、’91年大会にさらに踏み込んだ話をしてみたい。
【筆者プロフィール】
小林深緑郎(こばやし・しんろくろう)
ラグビージャーナリスト。1949(昭和24)年、東京生まれ。立教大卒。貿易商社勤務を経て画家に。現在、Jスポーツのラグビー放送コメンテーターも務める。幼少時より様々なスポーツの観戦に親しむ。自らは陸上競技に励む一方で、昭和20年代からラグビー観戦に情熱を注ぐ。国際ラグビーに対する並々ならぬ探究心で、造詣と愛情深いコラムを執筆。スティーブ小林の名で、世界に広く知られている。ラグビーマガジン誌では『トライライン』を連載中。著書に『世界ラグビー基礎知識』(ベースボール・マガジン社)がある。