しょうがねえなあ。電話での取材依頼時は、そんな感じだった。
「駅で待っとくよ。すぐにわかる」
1997年晩夏。長崎へ向かった。
諫早駅に到着。待合室へ。九スポを広げ、プロレス記事を読む大男がいた。原さん、どうも。
「おう」と、ぶっきらぼうな第一声。でも、わくわくして待っていてくれた。ラグビーの話がしたくて、したくて、たまらなかった。一緒にいた2日間、ラグビーのことを喋り続けた。
2015年4月28日。原進(はら・すすむ)さんが亡くなった。元日本代表プロップで、のちにプロレスラー「阿修羅原」として活躍した屈強な男は、肺炎をこじらせて息をひきとった。雲仙の病院で旅立った。68歳だった。
実際に会ったのは18年前の取材時だけだ。しかし何度か電話で話したり、取材の2日間、常に行動をともにしてくれた諫早農業高校時代の後輩の方との付き合いが続いたから、縁はつながっていた。ちょうど1年前に諫早を訪れた際は、入院中で会えなかった。
18年前の2日間、いろんなことを話してくれた。前出の後輩をドライバー代わりにひきずりまわし、母校に行ったり、食事へ。夜は「3000円で飲み放題だから安心しろ」とラグビー酒場へ行き、遅くまで飲んだ。ひとつのところですべてを話すわけでなく、グラウンドで、丘の上で、酒場で、想い出を話した。秩父宮のロッカールームでのこと。菅平の夏。プロレス時代。少年時の記憶。そして人生。そこらへんの草を引っこ抜き、口にくわえて話す姿がさまになっていた。
原さんは1947年1月8日、有明海を臨む諫早のとなり、森山町で生まれた。中学時代は柔道、諫早農業高校では相撲に打ち込んだ。
ラグビーは高校2年時から、冬になると土俵とグラウンドの両方に顔を出すようになったのがきっかけだ。真っ直ぐ走り、当たるだけのCTBだったそうだ。「うちで相撲を」と誘う多くの大学の中で、東洋大だけが「ラグビーを」と声を掛けたのが本格的な楕円の世界への入り口となった。大学2年時には、NO8として日本代表に選ばれた(試合出場はなし)。
「親からもらった、このからだのおかげ。俺には、それしかないよ」
取材時、何度もそう言った。
干拓で有名な有明海。幼い頃は、はね板に片足を乗せ、もう一方の足で泥を蹴って滑り、干潟の沖の方まで出た。どちらかの足が疲れれば逆足を使い何?も。あげまき貝を捕り、満ちてくる潮に追いかけられるようにして戻って来る。そんな日々を繰り返した。家の裏山では、棒きれ一本でけもの道を切り拓き、マムシを追い払い、頂上を目指す。春は田植え。秋は稲刈り。そして牛を引っ張った。自然と屈強な体の礎ができた。
「技術なんて何もわからなかったけど、俺には耐える体力があった。すべてはそこから始まったんだ。そう信じるね。練習するにも、まずは体力がないと始まらない。技術もそうだろう」
近鉄に入社して2年目の夏、日本代表の菅平合宿でプロップ転向を告げられた。いきなり猛練習。歴戦のフロントロー陣の中に放り込まれ、スクラム練習に明け暮れる。午前と午後の練習の間にぐったりしていると、首の皮の剥けた部分にハエがたかったが、それを追い払う力も残っていない。そんな日を重ねたことが、1971年、秩父宮にイングランドを迎えて3-6の死闘を演じることにつながる。
「勝ちたいとか、活躍したいとか、何も思わない試合だった。真っ白。頭の中は真っ白だったんだ。思い出そうにも思い出せない。気づいたらお客さんがグラウンドになだれ込んできていた。あの試合を見ていた人は、ジャパンが善戦したからとかでなく、ラグビーそのものに感動したんだと思う。それくらいの試合だった」
原さんは、「その後のラグビー人生は、あの感覚に出会うための時間だった。必死に戦い、探したけど、出会えなかった」とも言った。
あのイングランド戦。どう走り、どれだけタックルしたかは思い出せないが、試合前のロッカールームの情景は鮮明だ。
大西鐵之祐監督と水盃を交わした。「死んでこい。骨は俺が拾ってやる」の言葉を聞いた。「本当に俺はこの人のために死ねると思った」。体が震え、涙があふれた。80分間途切れることなく目の前の相手につかみかかり、ボールを追った。狂ったように走った。
涼風の吹く丘の上で話したときだったか。原さんが穏やかに言った。
「俺は、生まれてくる時代が少し遅かったんじゃないか。そう思うことがときどきある。時代が違えば、俺は侍だったろうな、と。お殿様のために死ぬとか、そういう、命をかけた戦いができる人間だと思っている。本当に死にゃあしないんだけど、本気で死ぬつもりで挑める。時代が違えば、特攻隊を志願していたかもな。あの頃の日本代表には、そんなやつが他にもいたような気がするんだ。だから、ああいう試合ができた気がする」
実は、あのイングランド戦のときと同じような感覚になったことがある。
「プロレスで一度だけ出会った。いつだったかなあ。天龍と、大分の田舎の町でやった試合。テレビ中継もなく、マスコミもほとんどいない試合だった。あの頃、俺も天龍も、全日本(プロレス)の試合がダレていると感じていたんだ。俺たちは(周囲と)同じように思われるのがたまらなく嫌だった。ラグビーで、試合で負けてもトイメンにだけは…とか、自分だけはと、必死に抵抗するだろう。あの感覚に似ていた。ハッキリ語り合うことはなかったけど、試合の前に(天龍と)目が合ったとき、通じ合うものがあった。ゴングと同時に頭は真っ白。無心で投げ、投げられたよ。出し切った。30分一本勝負でドロー。終わったとき、あのとき(イングランド戦)と同じだった。俺はプロレスをズーッと馬鹿にしていたんだ。あの世界に入って、7年も8年も。でも変わった。あの試合も、見る人を満足させ、感動させる試合だった。プロレスも、そこまでやれるんだよ」
得意技はヒットマンラリアットだった。
話せば話すほど、豪快なイメージと違っていった。優しく、シャイで、人好きだった。初対面なのに、先輩のように感じた。
「俺は霞を食べて生きていく仙人みたいな生活を送りたい。山の中にほったて小屋を建て、そこに子どもたちを呼んで、野の中で遊ぶ。いろんな遊びを教えてやる。そういうところで培ったものが、どれだけスポーツの中で重要かを教えてあげたい。それを確かめてみたい。結局俺は、この体だけを頼りに30何年もスポーツで生きてきた。お前の頭が悪かけんそれしかわからんと、と言われればそうかもしれんけど、俺が生きている間に結果が出なくてもいいから、死んだあとでもいいから、そういう環境で育った子どもたちが世界に飛び出していく…。そういう夢を見てみたいんだよ」
母校の後輩たちを指導した時期もあったそうだ。地域の子どもたちと触れ合った時期も。ただ体を壊し、それも思うようにいかなくなった。濃密に生きた話だけでも、後世に伝える機会がもっとたくさんあればよかったのに。
「呼んでくれるんだったら、いつでも東京に行くぞ」
何度かそう言われたことがある。そうしておけばよかった。
取材した18年前。原進、50歳。いま、こちらが同い年になった。
原さんのようなピュアな心、もう一度持たなきゃな。
【筆者プロフィール】
田村一博(たむら・かずひろ)
1964年10月21日生まれ。89年4月、株式会社ベースボール・マガジン社入社。ラグビーマガジン編集部勤務=4年、週刊ベースボール編集部勤務=4年を経て、1997年からラグビーマガジン編集長。