昭和の時代、平成の初期も含めて、関西を含めた全国の強豪高校ラグビー部は猛練習で形作られた。
毎日のトレーニングは3、4時間ぶっ通し。給水を含むブレイクはほとんどなかった。
大阪では大阪工大高(現 常翔学園)、浪商(現 大体大浪商)、興国、京都では花園、山口良治が赴任して新鋭と言われた伏見工、奈良は天理、兵庫は報徳学園などである。
大学時代、全国準優勝3回の花園高校の練習に参加した。高校生がヘッドキャップをかぶらず、試合形式を延々とこなしていた。額から血を流しながら、年下の彼らはひるまない。ポジションに関係なく目の前に来る相手に平然とタックルに入る。「ああ、これが強い理由だ」とその時思った。この風景は何も花園に限ったことではない。
誘ってくれたのはラグビースクールの同級生だった西谷毅(国際協力銀行勤務)である。西谷の父・康男は京都市役所で激しいFLとしてならし、チームメイトだった花園監督・川勝主一郎(前関西協会会長)をコーチなどで支えた。西谷の在籍していた大阪教育大付属天王寺にはラグビー部がなかった。彼は花園で楕円球を追う。大学は早稲田の政治経済学部に現役合格。「ほぼラグビー未経験」の肩書ながら4年の1988年にはWTBとして日体大戦など公式戦に出場する。
アカクロに袖を通せたのは高校時代の荒く、苦しい時間と無縁ではない。
花園と並び、報徳学園も当時から名門ラグビー部の1つだった。その名声もまた猛練習によって作り上げられた。
創部は1952年(昭和27)。今年1月の94回全国大会では8強に進出した。これまで41の出場回数を誇り、4強1回(97年度、77回大会)、8強4回。日本代表はSH日和佐篤(サントリー)ら8人を数える。
報徳を全国区に押し上げたのは前田豊彦である。鹿児島大を卒業して1960年に体育教師として赴任。ラグビー部監督に就任した。
前田は1992年、がんのため世を去る。最後の全国となった1991年度の71回大会は入院中だった。しかしワゴン車で花園に現れ、車内から指揮を執る。チームは2回戦で日川(山梨)に0-25で敗れるが、ラグビーにかける情熱を世に知らしめた。
現在、コーチの泉光太郎はFWとして前田の指導を1年間受けている。
「そりゃしんどかったですよ。ランパスとキックダッシュで2時間。スクラムが1時間。そしてアタック&ディフェンスで1時間。学校が終わってから普通で4時間でしたね」
キックダッシュはヘッドとも呼ばれ、3、4人で蹴られたボールをつなぐ。最低でも2時間は走りっぱなし。それでも古いOBは「昔に比べると楽になった」とつぶやく。
1987年度主将で現在、市立尼崎監督の吉識伸はPRだった。
「走っているとね『あれ、なんか周りの色が変わってきたぞ』って感じるんですよ。もう少したつとセピア色になる。音も聞こえへんようになるしね」
一日の終わりには一年生は疲労困憊(こんぱい)。動けない。コンクリートの上に仰向けに横たわり、ジュースの缶をくわえていた。
現監督の西條裕朗は笑う。
「もう今は我々の頃のような、そんなハードなことはしていませんよ」
西條は1981年に報徳を卒業。前田の猛練習を経験した。今は学業優先もあって、基本的な放課後の練習は2時間程度である。
現在、校内グラウンドは4月上旬完成予定の人工芝化工事のため使えない。
部員たちはすぐ東側を流れる武庫川の河川敷でトレーニングをしていた。学校より2キロほど上流でスクラムを組んだり、BKはラインを合わせる。砂浜のような場所ではショートダッシュを繰り返していた。
その光景を見ながら泉は言う。
「あの頃、僕たちは練習の最後に合わせようとしていました。だから終わりから逆算して、手を抜いていた。でも今は違います。短い代わりに気を抜かせる時間を作らせない。ある意味、昔よりしんどいのではないですかね」
言葉通り、泉は次々とメニューを指示していた。指導者の立場で西條は話す。
「長い練習時間と言うのは我々の自己満足だったのかもしれません」
新主将はFBの山村知也である。新年度に18歳になる山村は、もちろん30、40年前にあった修行とも言える日々を知らない。
「初めて聞きました。そんな練習をしていたのですか…。でも今やれ、と言われたら、やるつもりです」
その答えによどみはない。
3月、報徳は近畿大会1回戦で天理に7-65と大敗した。2勝が基本的条件の選抜出場も逃した。
春休みは午前、午後の2部練になる。計4時間。昔の放課後と同じだ。
毎日の解散寸前、部員たちは前田が作った2つの部訓を唱和する。
「自己を殺し一致団結」
「一発必殺の闘魂」
時を経ても変わらぬものはある。
【筆者プロフィール】
鎮 勝也(しずめ・かつや) スポーツライター。1966年生まれ。大阪府吹田市出身。6歳から大阪ラグビースクールでラグビーを始める。大阪府立摂津高校、立命館大学を卒業。在阪スポーツ新聞2社で内勤、外勤記者をつとめ、フリーになる。プロ、アマ野球とラグビーを中心に取材。著書に「花園が燃えた日」(論創社)、「伝説の剛速球投手 君は山口高志を見たか」(講談社)がある。