ラグビーリパブリック

個性=人間  藤島 大(スポーツライター)

2015.03.26

 昔、学生のころ、後輩のラグビー部1年生が部誌に「スポーツマンはせこくない」というタイトルの一文を寄せた。もはや手元になく記憶を頼りに概略を記すと、一般に「スポーツマンはせこくない」と思われているが、どうも自分が入部以来の同期の行動を観察すると間違いのようである…という内容だった。部室で起きる「せこい」出来事の細部を描いて、そこはかとなくユーモアの気配をまぶす。都立高校から入学のその部員にはコラムニストの資質があった。ほどなく当人はクラブを去ったので、いまどうしているか知らないが、きっと世の中を透徹した目で見つめ、皮肉の効いた表現で語っているだろう。

 ずっと忘れていた文章を思い出したのは、オーストラリアのブランビーズのデイヴィッド・ポーコックをめぐるニュースに接したからだ。先日のスーパーラグビーのワラタス戦で、相手のジャック・ポトヒエッターが「同性愛嫌悪」の汚い一言を吐いた、と激しく異を唱え、物議をかもした。「ポーコックは批判でなく拍手されるべき」(シドニー・モーニング・ヘラルド紙のアンドリュー・ウェブスター記者)という擁護は当然ながら大半である。ただしラグビーの古いサークルでは「試合中の言動についての過剰な反応」を快くとらえぬ雰囲気もあるようだ。

 ワラタスとワラビーズを率いるマイケル・チェイカ監督は、素早くポーコック支持を表明、それを伝える記事にこんなコメントがあった。

「私はラグビーが自分の意見を持たぬロボットに占められることを望まない。自分の意見を持つ人間は尊敬できる。チームにはさまざま個性があってほしい」

 冒頭の昔話と現在進行の「偏見との戦い」は次元がまるで違う。ただ日本の大学の部室で「スポーツマンは聖人にあらず俗物なり」と目を凝らす新入部員の個性があってこそ、チームはチームなのだなあと感じた。スポーツ人は単線を走らなくて構わないのである。

 アフリカ大陸ジンバブエ出身のポーコックは、昨年11月末、北部ニュー・サウス・ウェールズのモールズ・クリーク鉱山の環境破壊に対する抗議行動に参加、不法侵入および同占拠で訴追された。フェアトレード(発展途上国との経済格差解消のための公平貿易)促進や同性愛者の権利拡大にもパートナーの女性とともに情熱を傾けてきた。まさに「自分の意見を強く持つ」スポーツ選手のひとりである。

 鉱山の経営幹部は不快感を隠さなかった。「スポーツマンであれば他の者よりも審判(アンパイア)の決定の重みを知るべきなのに」(ABC放送)。この見解は浅い。審判も間違う。アンフェアなルールなど世にあまた存在する。スポーツ選手だからこそ不正に気づく場合もあるだろう。もちろんラグビー選手が「総合的に鉱山は必要」と自分の頭で考えるのも自由だ。ポーコックに賛同する者、意見を別にする者、それぞれがラグビーでは肩を組む。ひとりずつ違う人間が、ひととき、同じ目的に向かい突き進む。それがスポーツだ。 

 最後に、ここは、たとえばトップリーグや大学の選手も注意を払うべきだが「個人の意見」の通じぬ領域は厳に存在する。よい人種差別などありえない。そして、よい同性愛嫌悪もまたありえない。後者については、まだ認識が深くないのではないか。オーストラリア協会はジャック・ポトヒエッターに2万豪州ドル(約190万円)の罰金を科した。「なぜラグビー界はいかなる文脈であれそれを口にすることを容認できないのか」についての研修も待っている。

【筆者プロフィール】
藤島 大(ふじしま・だい)
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。著書に『ラグビーの情景』(ベースボール・マガジン社)、『ラグビー大魂』(ベースボール・マガジン社)、『楕円の流儀 日本ラグビーの苦難』(論創社)、『知と熱 日本ラグビーの変革者・大西鉄之祐』(文藝春秋)、『ラグビーの世紀』(洋泉社)、『ラグビー特別便 1986〜1996』(スキージャーナル)などがある。また、ラグビーマガジンや東京新聞(中日新聞)、週刊現代などでコラム連載中。J SPORTSのラグビー中継でコメンテーターも務める。

(写真:デイヴィッド・ポーコック/撮影:Yasu Takahashi)
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