「愛世は、非常に真面目な人です。大学時代お互いリーグ戦2部だったので対戦していましたが、仲良くなったのはヤマハでチームメイトになってから。非常に楽しい人でもあります」
「私はフィジーの首都、スヴァで生まれました。私の母が本島からはかなり離れたロトゥマ島出身。船で2日間ぐらいかかる、サモアなどに近い場所です。フィジーのパスポートを持っていますが、本島の人たちとは風貌が違い、言葉も主にはロトゥマ語を話します。ちなみに、私の妻もロトゥマ出身です」
「フィジーでラグビーは国技なので、もちろん幼い頃からプレーしていました。サッカーもしたことはありますが、ほとんどがラグビー。スポーツと言えばラグビーという環境です。本格的にプレーしたのはマリストブラザーズ高校入学後。現在もフィジーでトップ4ぐらい、強い方ですね。ずっとNO8でした。フィジーの伝説的選手だった(パウロ・)ナワルさんが白鷗大の監督だったのと、彼の奥さんがマリストブラザーズの先生という縁もあり、日本に来るチャンスをもらいました。文化は違いますが、将来を考えると海外でのプレーに挑戦したかったし、両親も賛成でした」
「来日したのが1月で、めちゃくちゃ寒い時期。最初はすぐにでも帰りたかった。3か月、語学学校に通い、4月から入学しました。食事は納豆以外平気でした(笑)。ただ、チームは2部で、公式戦になっても誰も見に来ない。フィジーの高校時代は、どんな対戦でも多くの人が見に来るものなので、その違いには驚きました。あとは、グラウンドが土だったのもヤバイなと感じました。4年間2部、埼工大には1度だけ勝ちましたが、1部との入替戦には行けなかった。でも、絶対トップリーグでプレーしたいという強い気持ちがあったので、オフ中も練習していました」
「2007年、大学卒業後、フィジー代表に選ばれました。パシフィック・ネーションズカップのトンガ戦で6番。スタメン出場にはビックリしましたが、相手がライバルのトンガ。皆が激しかったのを覚えています。その後、フィジー代表候補選手たちが集まり、ワールドカップメンバーを決める試合があったのですが、そこで落ちて本大会には行けなかった。残念でしたが、納得もしています」
「大学の方のおかげで、いろんなチームのトライアウトを受けることができました。最終的にはヤマハからOKをもらい、憧れていたトップリーグでプレーできることに。自分の力を出し切るだけでした。今回の日本選手権でヤマハが優勝、素晴らしい戦いでした。矢富(勇毅)選手が同期でしたし、少し複雑な気持ちもありました」
「ヤマハの1年目が終わった頃に帰化しました。日本に来る外国人は世界的にも有名な人たちが来るので、日本人の方が出場機会に恵まれるということも理由の一つです。両親は帰化自体には不安だったようですが、最終的に自分ですべて決めろと言ってくれた。名前に入れた優という文字は、自分の好きな漢字です。来日当時、いつも関東学院と早稲田が優勝を争っていた時代で、テレビを見ていると優勝という言葉を聞いたり、文字を見たりしていました。その時、優勝がチャンピオンという意味だと知ったのと、優にはやさしいという意味もある。優勝を目指して、優しい人でありたいという気持ちがあったので、これだと決めました」
「今はトヨタでプレーできて、うれしい気持ちでいっぱいです。家族で新たな生活も始めています。シーズン当初は調子が良かったのですが、ファーストステージ終盤に怪我をして、後半戦はチームに貢献できなかったのが心残り。チームは終盤戦によくなってきた実感はありましたが、ワイルドカード敗退。あそこを勝っていれば、もっと強くなったはずです。試合の序盤はすごくよくても、後半にムラがあったりと、改善点はあります。トヨタは強いチームだと思っているので、優勝できると信じています」
「私が紹介するのは、秋田ノーザンブレッツのマヌエリ・ナワル。かつてフィジーの伝説的選手だったパウロ・ナワルの息子さんです。白鷗大では大学4年生の時の1年生。FBで、すごいいい選手でした。キックの成功率が高く、接戦の試合では彼のゴールに頼っていました。高校時代は、日本かフィジーの代表になると思っていたほど才能がありましたよ」
【Player Profile】
トーマス優デーリックデニイ YU DERYCK DENYS THOMAS
トヨタ自動車ヴェルブリッツ所属(LO)
身長193センチ、体重115キロ。1985年4月8日、フィジー生まれ。
マリストブラザーズ高→白鷗大→ヤマハ→トヨタ。フィジー代表キャップ3
リザーブとしてメンバー入り。写真左から3人目がトーマス(撮影:高見博樹)