ラグビーリパブリック

ラグビーワールドカップを巡る旅。 第1回大会開幕前年、英国を巡る。  小林深緑郎(ラグビージャーナリスト)

2015.01.29

 今回のコラムから、新しいシリーズとして、これまでに開かれた7大会のラグビー・ワールドカップにまつわる、エピソードを書き連ねていこうと思う。中心となるのは観戦記ではなしに、私的な観察にもとづく枝葉末節とも思える細事を綴ってみようと考えている。

 初回のラグビーW杯は、1987年にNZとオーストラリア2か国を舞台に開かれたわけだが、その前年の1986年から話を始めたいと思う。このときすでに会社勤めをやめていた筆者は、将来の準備(漠然とラグビー報道に関わる仕事を考えていた)をさらに前に踏み出すべく、9〜10月にスコットランドとイングランドへ遠征する日本代表の試合を観に行くことにした。

 旅のために購入したVHSのビデオカメラは長さ43センチもあるバッグに収納して持ち歩いた。それ以前の旅行者がビデオカメラを背負子(しょいこ)に括り付けて海外へ出かけたことを思えば、これでも小型化されたのだが、撮影時にはカメラを肩に担ぐ方式だし、虎屋の羊羹みたいな大きく重いバッテリー2本を持ち歩かねばならない。ロンドンのヒースロー空港では、エックス線の手荷物検査で何らかの武器と疑われ、緊張した係官のチェックが怖かった。

 当時、ロンドンへは、アラスカのアンカレッジで給油するルートしかなく、早朝にヒースロー空港へ着いた。復路のアンカレッジでは、多くの同胞同様に空港のうどんを食べている。偉大な出汁の香りには勝てない。

 朝のヒースローからチューブ(地下鉄)を乗り継いで、ようやくロンドンのターミナル駅のひとつパディントンに到着。朝食を摂ろうと思い、邪魔な旅行かばんを預けた。旅行かばんの一時預け所は”Left Baggage”、預けたいときは、”I want to leave my baggage” などということは知っていたのだと思うが、意表をつかれたのが、乗車券を買う窓口で、『シングル or リターン』と聞かれたときだ。これが、「片道か往復か」と聞かれているとは分からずに、往復だと料金が割引きとなることにはあとで気付いた。

 その日の夕方、最初に観たのが、オックスフォードのイフリーロードでジャパンがイングランド学生代表に大敗した試合だった。このとき、相手のWTBにケンブリッジ大の学生だったクリス・オティがいて、彼1人に4トライを奪われた。イングランド生まれの黒人クリス・オティのエピソードは、1991年W杯のところで紹介するつもりだ。

 試合前の会場はのんびりしていた。当時イングランド協会に留学していた早稲田の日比野弘氏と少し話をする機会があった。このラグビー場で印象に残ったのが、何処からともなくキャンピングカーのようにな仮設の移動式のバーが、牽引されてきて、ビールの樽がタップにつながれ、設営されてゆくさまだった。なんたる手際の良さ、飲んべえも醸造元も、『意志ある所に道は開ける(Where there is a will, there is a way.)』を地で行く。

 翌日の水曜日は、ロンドンからウエールズのカーディフへ移動し、予約してあったアームズパークの隣のエンジェルホテルへ一泊した。エンジェルホテルは、以前には、ウエールズ代表の試合前日の集合場所で、更衣室代わりに使っていたホテルだ。さらにその名が永遠に記憶されることになったのは、1972年12月6日の夜に起きた次の事件である。

 ウエールズ戦の勝利に酔ったオールブラックスの右PRキース・マードックは、ホテルのバーが閉まったあとの深夜、ビールを捜しに調理場へ侵入を企て、警備員ともみ合いになって相手を殴り倒してしまう。事件は大騒動に発展し、2日後、NZのチームマネジャーはマードックを本国へ送還することを決めた。単身帰路についたマードックは、経由地のシンガポールでこつ然と姿を消してしまう。それから42年、彼はオーストラリアの内陸地を転々とし、メディアの接触を拒絶し、今に至っている。

 話は筆者の話に戻るが、その日は現在ミレニアムスタジアムとなっているオールド・アームズパークへ行き、競技場とは背中合わせのカーディフ・クラブのミュージアムを見せてもらった。このとき創立110年のクラブには、歴史の遺物が詰まっていた。

 その夜、列車でカーディフの郊外の街ブリジェンドで行われるクラブ戦のブリジェンド対カーディフを観に行った。ブリジェンドは、1975年に来日した名FBのJPR・ウィリアムズのホームクラブである。この試合にカーディフのS0で出ていたのがゲライント・ジョン(Geraint John)だ。ウエールズAの代表歴を持ち、IRB(現ワールドラグビー)からカナダ協会に派遣され、ハイパフォーマンス部長、カナダの7人制代表ヘッドコーチを経て、昨年からオーストラリアの7人制代表ヘッドコーチを務めている。
 近年、ブリジェンドのクラブラグビーに関する寂しいニュースを聞いた。ホームのブルワリーフィールドが水に浸かって、改修する資金もなく寂れてしまったというものだ。

 10月11日の土曜日、ロンドンのウォータールー駅から列車でトゥイッケナムの駅へ向かう。当時英国では普通の店は土曜営業は法律で禁止されていた。営業しているのはインド、パキスタン出身者が経営する食料品店だけ。ラグビー場へ向かう間に、軽い飲食の品を購入、出入り口にバウンサー(用心棒)風な雇い人が目を光らせていた。

 トゥイッケナムは1991年まで昔の雰囲気をたたえていた。屋根はちょっとだけ奈良の唐招提寺を連想させ、柱のある観客席を含め、全体に灰色がかった緑と茶系の古風な色彩に包まれていた。
 日本戦の観客席は2階は閉めたままで、1階席のみを解放していた。試合はSH小西義光の快走トライで日本が先制し、前半を12-6とリード。筆者は勝利を夢見る。地元の観客は次第に日本のプレー賞賛をやめ、本気でイングランドの応援へ回った。結果は12-39でイングランドの勝利だったが、翌年のW杯に期待を持てる内容だった。

 このあと、イタリアを回って日本に戻ったのだが、イタリアのフィレンツェの駅近くで目にしたH型のゴールポストに感激した。列車の乗客を観察した結果、平均してイングランド人よりイタリア人の方が前腕、上腕とも太いことを確信した。だから、シックスネーションズのイタリア代表の腕力の強さには驚かない。

【筆者プロフィール】
小林深緑郎(こばやし・しんろくろう)
ラグビージャーナリスト。1949(昭和24)年、東京生まれ。立教大卒。貿易商社勤務を経て画家に。現在、Jスポーツのラグビー放送コメンテーターも務める。幼少時より様々なスポーツの観戦に親しむ。自らは陸上競技に励む一方で、昭和20年代からラグビー観戦に情熱を注ぐ。国際ラグビーに対する並々ならぬ探究心で、造詣と愛情深いコラムを執筆。スティーブ小林の名で、世界に広く知られている。ラグビーマガジン誌では『トライライン』を連載中。著書に『世界ラグビー基礎知識』(ベースボール・マガジン社)がある。

(写真:1980年代のトゥイッケナム=gettyimages)
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