矢澤蒼(あおい)は脳震盪(のうしんとう)に見舞われた。
そして日本のユースレベルを代表する奈良・御所実SOは、選手としての高校ラグビーに別れを告げた。
記憶が飛んだのは1月3日だった。第94回全国高校大会準々決勝の国学院久我山戦。後半、相手の頭が顎に入った。ボクシングで言うKOパンチ状態。そのまま天然芝に倒れ込んだ。マッチ・ドクター(MD)2人が走り寄る。しばらくして1人でグラウンド外に出たが、二度と戻らなかった。
「あそこから自分の動きを覚えていません。気がついた時はロッカーのベンチに座っていました。試合が終わった後ですね」
高校日本代表候補で192センチ、98キロと超高校級の体を誇る矢澤はアクシデントを説明した。
31-19の8強戦以降、試合出場、練習参加は厳禁された。これはWR(WORLD RUGBY、旧IRB)規定を受けた日本協会通達に基づく措置である。世界基準だ。
意識喪失やけいれんなど24項目に基づき、脳震盪、あるいは脳震盪疑いと判定された19歳以下の選手は、14日間の完全休養と21日目以降の競技復帰が義務付けられている。
3週間の出場禁止の裏側にあるのは、セカンド・インパクトの防止である。脳震盪を起こせば、頭蓋骨の内側で脳浮腫が起こっている可能性がある。そうなれば受傷後、時間が経過しても突然意識を失い、死に至る。例はラグビーに限らずいくつもある。大会医務委員長を務める外科医・外山幸正は言う。
「21日間あればセカンド・インパクトの可能性は消える。だから安静を含め段階的復帰をさせるようになっている。3週間は長い、という人もいる。でも万が一、選手が亡くなったら一体誰が責任を取るんや?」
安全面から、今大会はレフェリーがMDを呼ぶ笛3つを鳴らさなくとも、MDの判断によるグラウンド侵入が再確認された。そして両チームから1人ずつ出される主にトレーナー資格を持ったセーフティー・アシスタント(SA、医療従事者助手)を遠ざけ、脳震盪判定を下す。これはSAが自チームの戦力ダウンを避けるため、倒れた選手に駆け寄り、細工をしての試合続行を防ぐためである。MDの数も両タッチラインに2人、計4人を配置するようにした。外山は理由を話す。
「医務心得者を助ける人間に選手を変える権限はない、ということを明確にした」
すべては安全性確保のため。この流れの中で矢澤の判定が出された。
自分を襲った事故を直視した上で、矢澤は現在の状況を口にした。
「頭痛もないし、体も問題ない。でも診断が出てしまった以上仕方ありません」
以後、ウォーター・ボーイ(WB)になる。5日の準決勝、京都成章戦は黄色のビブスをつけ、試合中やハーフタイム中の自チームへの給水を手伝った。
「自分がやる以上にハラハラします。つい試合に出ているような感じになり、大声を上げてしまう。レフェリーから『もう少し静かにしなさい』と注意されてしまいました」
会話にはユーモアが混ざっていた。
4年前、同じ思いを味わった選手がいる。大学選手権6連覇を果たした帝京大4年のレギュラーCTB権裕人(こん・ゆいん)だ。大阪朝高3年時、90回大会2回戦の福岡高戦で脳震盪を起こした。当時から180センチ、100キロあったエースを欠いた朝高は、準決勝で優勝する桐蔭学園に10-21で敗れる。
権は矢澤が退場した試合を寮のテレビでライブで見ていた。
「矢澤君は僕と似ているなあ、と思いました。でも彼は立って一人でグラウンドを出た。僕は意識もうろうで担架で運ばれましたから。だから大丈夫と考えていました」
そして続ける。
「4年前、出場停止になって、そりゃあ悔しかった。諦めきれませんでした。ですが、今になって思うのは、『あれは長いラグビー人生の1つの瞬間だった』ということ。あのままプレーを続けていれば、セカンド・インパクトが出て、人生そのものが終わっていたかもしれません。僕の方にも問題はあった。もっと首を鍛えていれば、脳震盪までは至らない可能性もありましたから」
その上で経験に基づいた助言を送る。
「今はつらいかもしれないけれど、この出来事は必ず糧になります。男らしくグッとこらえて前に進んで行ってほしい」
矢澤は権と同じ帝京大進学が決まっている。入れ違いになる後輩を思いやる。
「卒業しても大学にはできるだけ顔を出すつもりです。矢澤君とは話をしたいですね」
1月7日、優勝戦で御所実は東福岡に5-57で敗れた。2度目のWBだった矢澤は大泣きする仲間の肩を抱き、励ました。
「5点しか取れなかったけれど、御所らしさは出せたと思います。この悔しさを忘れず、大学で頑張っていきたい」
18歳の少年は涙をまったく見せず、ただただ笑っていた。
それは立派な姿だった。
【筆者プロフィール】
鎮 勝也(しずめ・かつや) スポーツライター。1966年生まれ。大阪府吹田市出身。6歳から大阪ラグビースクールでラグビーを始める。大阪府立摂津高校、立命館大学を卒業。在阪スポーツ新聞2社で内勤、外勤記者をつとめ、フリーになる。プロ、アマ野球とラグビーを中心に取材。著書に「花園が燃えた日」(論創社)、「伝説の剛速球投手 君は山口高志を見たか」(講談社)がある。