ラグビーリパブリック

東大阪愛あふれる。「ラグビーのまち」の熱源に。

2014.11.25
 20年ほど前まで大学生はおっさんだった。明治大学ラグビー部のFWなんて、いかついおっちゃんたちの集団。ラインアウト地点にゆっくり歩み寄るさまは、近所の銭湯にみんなで出掛けるように見えると言われたりした。
 そんな集団のリーダーだった男(1994年度キャプテン)がいま、子どもたちに「ナンちゃん!」と親しまれている。東大阪市でタグラグビーの普及に走り回っている南條賢太さんは、大阪工大高(現・常翔学園)、明治大学と学生ラグビーの王道を歩み、大学卒業後は神戸製鋼でプレー。強力PRとして長く活躍した人だ。最後に所属した近鉄(2009年度〜2010年度シーズン)を2011年春に引退。それ以来、腰にタグを付けて走り回るラグビーを通して子どもたちと触れあい続けている。
 2019年に日本で開催されるワールドカップの試合開催地に立候補している大阪府東大阪市。同市では2011年秋から、市内のいくつかの小学校でタグラグビーを体育の授業に採り入れるようになった。さすが、『聖地』花園ラグビー場のお膝元…と言いたいところだが、実情は違った。
「ラグビーのまち」として知られる東大阪市。しかし市民向けのアンケート調査を実施してみれば、『8割〜9割の市民がラグビーを知らない。あるいは見たことがない』というのが現実だった。ほんの数年前の話だ。
 だから、市はすぐに動き始めた。名実ともにラグビータウンとなるために。その一連の動きの中で「ラグビーのまち東大阪」アドバイザーに招聘したのが南條さんだった(2010年)。ラグビー界の真ん中を闊歩してきた男は、愛する楕円球界を底辺から支える役にまわった。
 高校に進学するまで、東大阪ラグビースクール、東大阪市立玉川中学校と、生まれ育った地で楕円球とともに生きた。長く所属した神戸製鋼コベルコスティーラーズを離れ、現役最後に近鉄ライナーズでプレーしたのも「大好きな街に恩返ししたかった」からだ。
「父(弘昌さん)は私が大学3年生の時に亡くなったのですが、お祭りを作ったり、人のつながりを大事にする人でした。だから近鉄に入って、地元で食事とかをしていると、『息子か。(お父さんには)ようお世話になったわ』と言ってくださる方がたくさんいたんです。現役を引退し、ラグビーをもう一度勉強したいな、と思っていました。そして、できることなら父も愛していた東大阪で、と。そんなときに市からアドバイザーとして声をかけていただきました。タグラグビーを普及していきたい意向も聞きました。ラグビーを通して、自分の街にたずさわれる。シアワセなことですから、喜んでお手伝いさせていただくことにしました」
 アスリートとして勝負の世界に生きてきた男が、笑顔でグラウンドに立つ日々が始まった。スクラムのないラグビーでも南條さんは、すぐに輝き始めた。東大阪市内の小学校を駆け回り、授業の中でタグラグビーのおもしろさを伝えていく。限られた時間の中で伝えたいのは、競技の魅力とともに、その根本にある「仲間」や「協力」の存在だ。
 最初の授業をよくおぼえている。先生に対して反抗的な態度をとる生徒が何人かいた。こちらを見ない。話しを聞かない。動かない。こんなときに、大柄なおっちゃんはいい。見るからに迫力がある。さらにプロップだ。相手が息を吐いた隙に、グッと懐に入り込む。いくら悪ぶってもどこかに残っている少年の心を解きほぐした。
「誰でも、本当はみんなと一緒にやりたいんです」
 体操着も着てこなかった生徒が着替えてくるようになる。こっちを向くようになる。目が輝き始める。子どもたちの変化は、そのまま自分の喜びになった。
 南條さんは、いつも子どもたちに言う。
「相手がいるからタグができるんやで」
 スポーツの原点。社会中の一員としていくための教え。みんなの口から出て来るようになってきたノーサイドの精神も、彼らのこれからの人生を豊かにすることになるだろう。
 いくら言ってもきかなかった子どもたちや、いつも尻込みしていた児童が笑顔になり、みんなと走り、素直に喜ぶようになる。そんな姿を見た先生たちの中には、涙を流す方も少なくないという。
「ただ、勘違いしたらあかん。そう肝に銘じています。僕は体育の授業に足を運んで、その時を精一杯楽しめるようにしているだけです。子どもたちも楽しみにして来てくれるから素直になる。でも先生方は四六時中関わって、いろんな気分の子どもたちと接し、教育されています。そういう時間があるからこそ、子どもたちも僕らもタグを楽しくやれている。(自分も)役に立てることがあるんやなぁ。それくらいに思っておくのがちょうどいい、ですね(笑)」
 タグを入り口にラグビーそのものも広がり、そこに自分が関わっている。それがたまらなく嬉しいと笑う。「ラグビーに育てられた人間なので恩返ししたい」と何度も言う。2019年に日本で開催されるワールドカップには多くの人々の力が必要で、そこにはいろんなサポートの仕方がある。その中で自分は、子どもたちがラグビーと出会う機会をできるだけ多く作ることに力を注ぎたい。彼ら、彼女たちが仲間を呼んだり、また次の世代に伝えたり。2019年に間に合うのがいちばんだけど、その後の日本ラグビーを豊かにする作業も大事だ。
「自分を必要としてくれている人たちがいる。何よりシアワセなことですよね」
 とことんラグビーと生きていこうと思っている。人生を懸けてやる仕事だ、と。
 最初は市内で8校だけだったタグ導入校は、年を追うごとに増えている。2年目は18校になり、3000人近い子どもたちと走った。3年目は22校に。今年は30校となり、授業時間数は年間500を越える。毎年一度、花園ラグビー場で開く大会には、出場希望チームが殺到。学校からは、「休み時間にみんなで練習していますよ」という嬉しい報告もある。
「市内の全54校でタグを。そうなったら本当にラグビーのまち、ですね(笑)」
 トライだけでなくタグをとっても得点とするなど、ルールにも工夫を凝らす。運動自慢でない子でも輝けるから、多くの子どもたちが笑顔になれる。
 タグだけでなく、「ラグビーのために」いろいろとアンテナを張り巡らす南條さんは、時間を見つけてはトップコーチになるための努力も重ねる。国際機関のコーチング研修を受講することもあるが、あるとき、海外からやって来た講師から「そのコーチングスタイルはどこで学んだものなんだ」と驚かれたことがあるそうだ。
「多くの子どもたちと接し、誰にでも楽しんでもらえるように伝える。どんな子にも理解してもらい、うまくできるように。そういうことを考え、いつも実践しているだけなんです。全部、子どもたちから教わった(笑)」
 先生のつもりで校庭に立ったことはない。コーチとも違う。ナンちゃんとして、子どもたちの輪の中に入り込んでいるから、伝えることも、教わることもできている。そんなシアワセな立場、やめられるはずないよね。
南條賢太(なんじょう・けんた)
1972年11月22日生まれ、42歳。東大阪ラグビースクール→玉川中学→大阪工大高→明治大学→神戸製鋼→近鉄。近鉄退団後には六甲クラブでもプレーした。現役時代のポジションはPR。元高校日本代表。日本ラグビー協会リソースコーチとして、様々なカテゴリーでコーチも務める。

みんなに愛される「ナンちゃん」こと南條賢太さん(右)。

指導をサポートしてくれる宿利誠さんと、花園ラグビー場にて。

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