イラク情勢は混迷を深めていた。映画『誰も知らない』主演の柳楽優弥がカンヌ国際映画祭で男優賞を受賞するのはこの直後だ。2004年の5月16日、東京・秩父宮ラグビー場、ジャパンは韓国代表に勝てなかった。19−19。あれは隣国のいまのところ最後の輝きだった。桜のエンブレムの13番は大畑大介、本来の14番より転じた。「攻撃力増強」をもくろむ試みは、どうやら成功ではなさそうだった。ジャパンのメンバー表のいわゆる「外国人選手」は、公称117?のルアタンギ・バツベイひとり。その巨漢は後半20分に退く。そこから追いつかれてのドローだから、当時の韓国ラグビー関係者の決まり文句、「日本に外国人さえいなかったら勝負になりますよ」が表層においては証明された。
この試合で、バツベイと交替の背番号18は、「東芝府中」の大野均である。26歳。これが代表初キャップだった。「ほろ苦い」なんて常套句を用いたくなるけれど、10年後、すなわち本年のサモア戦前日に当時の気持ちを聞くと「ジャパンにいられることが嬉しかった」と語った。そうかもしれない。なにしろラグビー競技と出合って8年しか過ぎていないのだから。
福島県の清陵情報高校では「変化球をうまく打てない」野球部員だった。外野か捕手がポジションである。郡山郊外の農家に育ち、牛小屋の藁運び、水の運搬などを手伝った。中学、高校とローカル紙「福島民報」の配達にも励む。生活の培った頑丈。それはのちに花を咲かせる。高校時代、自宅で勉強したくないので試験が近づくと学校の中で決着をつけた。図書館にこもりせっせと勉強に集中する。おかげで成績の評定は上々、家族の希望もあり地元の日本大学工学部の推薦入学資格を得た。なんたる幸い、ここでラグビー部の門を叩く。
東北地区大学リーグ所属、後年の歴代最多キャップ獲得の人は、初心者ながら、いまと変わらず手抜きを知らず、次第に未知のスポーツの喜びに浸る。長身を評価され、県選抜に呼ばれ、そこの監督が当時の東芝府中の薫田真広監督と大学同窓、あれよあれよと入社と入部は決まった。よく(親に見せられぬ質量で)鍛え、よく(グラウンドで正当に)暴れ、よく(適量という常識を超越して)飲む。クラブの伝統にピタリと個性は合致した。ちなみに、工学部機械工学科の卒業論文は「石炭液化油のディーゼルエンジンへの適用に関する実験」である。以後の奮闘と飛躍は周知のとおり。ときに1試合で8?もやせる運動量、痛覚がないような献身の連続はいつになっても途切れない。「初心者同然で東芝に入ったので練習からすべて全力を尽くすほかなかった」。そんな22歳の心構えは36歳にして不動だ。
日本ラグビー史の誇る「均ちゃん」は本日もまた旺盛かつ真摯に生きる。5月30日のサモア戦において歴代最多82キャップに到達。あの韓国戦でのデビュー時、京都の活発な男の子、藤田慶和は10歳だった。
【筆者プロフィール】
藤島 大(ふじしま・だい)
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。著書に『ラグビーの情景』(ベースボール・マガジン社)、『ラグビー大魂』(ベースボール・マガジン社)、『楕円の流儀 日本ラグビーの苦難』(論創社)、『知と熱 日本ラグビーの変革者・大西鉄之祐』(文藝春秋)、『ラグビーの世紀』(洋泉社)、『ラグビー特別便 1986〜1996』(スキージャーナル)などがある。また、ラグビーマガジンや東京新聞(中日新聞)、週刊現代などでコラム連載中。J SPORTSのラグビー中継でコメンテーターも務める。