ラグビーリパブリック

発車!  藤島 大(スポーツライター)

2013.08.01

 夏合宿の季節到来、早朝、そっと街道沿いに横付けされたバスのステップに足を乗せる学生時代の感覚をいまでも覚えている。あのころ、もう四半世紀以上前の早稲田大学ラグビー部の時間厳守は実に妥協なく、定刻、たとえば午前7時なら7時になると粛々と発車する。キャプテンだったか主務だったか「じゃ、お願いします」と運転席に声をかける響きも記憶に残ったままだ。

 遅れてくる部員がいた。ほんの数十秒というところか。後方をダッシュで追いかけてくる。みんな車窓から振り返る。駆ける。これから走りっぱなしの合宿なのに駆ける。でもバスは止まらない。そんなことが4年間で確か2度あった。遅れてきた者は、鉄道とタクシーを駆使して、菅平高原の宿舎の集合ロビーに先回り、椅子にポツンと腰掛けて頭を下げた。

 それと同じ逸話を読んだことがある。かつてオールブラックスを率いて、才気満々の無敵の進撃と、才気ゆえのワールドカップでの突然の蹉跌(1999年、準決勝、負け犬ともくされたフランスに油断してまさかの敗戦)を喫した指導者、ジョン・ハートの93年の評伝『Straight from the Hart 』の一節だった。

 オークランド代表監督時代、チームのキャプテン、オールブラックスとして通算117試合出場の国民的名士でもあるアンディー・ヘイデンが遠征のバスに遅れた。この世界的ロックはバスの最後尾に座る大物中の大物だ。ハートは思案して「置き去り」を決める。ヘイデンもまた自動車で先回りして待っていた。そして監督に言った。「あなたのしたことは正しい」。

 時間厳守の鉄則は「万人に等しく」である。新人の遅刻は発車、レギュラーの中心選手なら待機、では、意味も薄い。そして、多くのチームは、これが案外できないのである。時間に限らず規律とは、弱者のみに向けては、ただの意地悪である。キャプテンにも、古株にも、最上級生にも、まったく分け隔てがないからクラブの最上位概念たりうるのだ。

 あまりにも多くの人が書いたり話したりしているので繰り返すのは申し訳ないけれど、なるほど携帯電話のない時代より現在は時間厳守が緩い。公衆電話のみが連絡手段であったころ、待ち合わせ、ことに初対面の相手とのそれは緊張の状況でもあった。ガールフレンドとデートする手順も、自宅に電話をかけて、決まって不機嫌な父親が受話器をとる恐怖を乗り越え、どこどこで何時と決めると、なんというのか遅刻する気もなくなるのである。

 以下、余談だろうが、敬愛する作家、故・田中小実昌のエッセイにこうあって、本物の小説家とはおそろしいなあ、と感動した。某年某日、新宿西口のビルの前で、愛称コミさんは、ある女性と待ち合わせをした。ところが、いっこうに現れない。

「彼女は新宿駅で国電をおり、改札をでて、そこが地下だということに気がつかず、そのビルの地下の入口で待っていた。こんなふうに言うと、無邪気な女性のようだが、実はこんな女性は自己中心的で、まわりに甘ったれている」(田中小実昌エッセイ・コレクション6、ちくま文庫)

 
 あの、一見すると飄々、ふらふら、路線バスでの名画座めぐりと、夕刻からのチューハイを愛し、わかんないことはわかんない、安易に定義しちゃいけないよ、と書き続けた人が断言するから迫力がある。

 筆者の大学コーチ時代のある選手は、就職試験で、倍率難関とされる会社に採用された。面接当日、気迫をたたえて、1時間は早く会場へ到着、ビルの前のベンチで沈思黙考していたら「合格」の確信がわきあがった。後日、同業の別の社を受けた。もともとそちらのほうが自信はあった。こんどは、遅刻はしないが、そこまで早くは着かなかった。すると確信をつかめない。ひとつ内定をもらった緩みがどこかにあった。数年後、その話をしてくれて、こう、つぶやいた。
「試合と同じですね。就職試験も」。バス発車! の理由もそこにある。

 

 

【筆者プロフィール】
藤島 大(ふじしま・だい)
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。著書に『ラグビーの情景』(ベースボール・マガジン社)、『ラグビー大魂』(ベースボール・マガジン社)、『楕円の流儀 日本ラグビーの苦難』(論創社)、『知と熱 日本ラグビーの変革者・大西鉄之祐』(文藝春秋)、『ラグビーの世紀』(洋泉社)、『ラグビー特別便 1986〜1996』(スキージャーナル)などがある。また、ラグビーマガジンや東京新聞(中日新聞)、週刊現代などでコラム連載中。J SPORTSのラグビー中継でコメンテーターも務める。

 

〔写真:毎回正確にバスに乗り込み、練習会場から去っていったウエールズ代表。バスへ急ぐエドワーズ コーチ〕

(撮影:松本かおり)

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