ラグビーリパブリック

【藤島大コラム】 ロムーの罰走

2013.01.24


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(写真:BBM)


 


 


 ふたつの心理がある。ひとつは「自分がされてきたことを肯定したくなる」。もうひとつが「自分ができたことは後進もまたできるのだと信じる」。どちらも自然な心の動きである。ふたつの感情が重なったところに「体罰」のワナは迫る。



 すでに新聞やサッカーの専門誌にも、同じテーマを書いたが、やはり、わが「リパブリック」にも記しておきたい。本コラム筆者の不動の結論は「体罰は絶対悪」である。高校、大学で所属したラグビー部にもし体罰がまかり通っていたら、このスポーツを好きだったが、きっと退部していただろう。さいわい、どちらもそうではなかった。



 九州出身の大学のラグビー部後輩で、後年、海外留学するなど、万事に開明的で自由な精神の人間に「我が体罰絶対悪論」を開陳したら、酒場でこう反論された。「いや殴りますよ。九州の高校はみんな」。発言のココロは「自分もそうして育てられた」だった。



 実感としてわかる。冒頭の心理だ。その時はいろいろ感じても、結局は、ラグビーでも学問でも仕事でもそれなりにやってこられたのは、あの熱心で厳格な指導のおかげである。また自分の学校のラグビーの後進たちなら、そうした厳しさを乗り越えて立派になるだろうと。実際、読者にも同様の気持ちを抱いておられるかたはおられると想像できる。



 しかし、体罰をしても生涯にわたって尊敬されるような指導者であれば、いくらかの手間をかければ、体罰抜きにも同じだけの成果は得られるはずだ。社会的に「いい監督なら殴ってもよい」としてしまうと、多数を占めるはずの「そこまでよくない監督」までが、ただ感情的に手を出しかねない。その先には心の傷と悲劇、あるいは表向きの従属という冷たい人間関係が待ち受ける。


 
 真剣勝負のスポーツのコーチングの要諦とは「心の動き」にある。人間、まして青春の渦中の若者、感情が大きく揺さぶられた時、その直後が、成長の好機である。ひどく叱られる。あるいは、ふいに驚くほどほめられる。仲間の奮闘に刺激を受ける。そのことを経て伸びてゆく。いつも快適で滑らかで平明な練習ばかりでは飛躍できない。



 おっかなくて本当は優しくて、なにより愛情と情熱に満ちた監督が「悔しくないのか」と泣きながらパチンと頬を張ったら、そりゃあ、少年(もしかして少女)の心は動くだろう。その後、ただちに挽回の機会を与えられたら、きっと前よりはよくなっている。具体的な進歩である。



 しかし繰り返すが、そのことが可能なのは、優れた監督(コーチ)だけである。そして優れた指導者は、正当な練習で、同じような心の負荷とそこからの解放をもたらすべきなのである。そもそもスポーツの場とは最も体罰を必要とせぬ空間と時間のはずだ。よく練られた猛練習があれば、選手の感情は大いに動くからである。



 体罰は絶対悪だが、猛鍛練は悪ではない。自分たちより強大な相手を打ち破ると覚悟したなら、強化の過程に「親には見せられない練習」は不可欠だ。「快」だけでは潜在力の限界には届かない。ひとときの「不快」や「屈辱」は、ひとりの人間、その集合体としてのチーム、もっといえば、ひとりの人間としてのクラブの力を引き出すきっかけとなるのだ。



 以下、筆者の狭い範囲のコーチング経験を例とするのを許していただきたい。



 早稲田大学コーチ時代、入学ほどない新人の早明戦、早慶戦では、どんなに力をふりしぼっても負けたら必ず選手たちに特訓を強いた。明治の八幡山グラウンドで敗れれば、そのまま電車で自分たちの本拠地である東伏見に帰し、コーチ陣は先に自動車で戻って猛練習のための準備をして待ち受けた。当時は、明治には高校の一線級が並び、慶應は神奈川県内で強豪の付属高校から進んだ仲間の連係がよくとれており、入部直後の情勢では早稲田が苦しく、よく負けた。正直、よく戦ってるなあ、と感じる試合もあったが、ここだけは、あえて「しぼった」。全国のさまざまなレベルから集まった新入生に「優勝のみをめざすチャンピオンシップのクラブに入った」と強く意識させるためだった。



 ただし、どんな試合にも負けるたびに特訓を施したのでは、それは慣習に過ぎないから、効果はない。むしろ意欲をそぐばかりだ。「ここ」という時に愛と熱をこめて行うのが指導者の腕なのだと思う。それはチームだけでなく個人に対しても同じだ。



 往時のオールブラックスの怪物WTB、ジョナ・ロムーは5年前の来日時にこう語った。



「かつてはニュージーランドにも罰走のような練習がありました。何十回もグラウンドを往復させられる。タイムを切れなければさらに増える。もう足も動かない。頭は下がる。でも、ふと両脇を見ると仲間も同じように走っている。こいつらが一緒なら乗り切れると思える。窮地に立たされれば人間の本当の姿もわかります」(ラグビーマガジン)



 これがあれば体罰はいらない。


 


(文・藤島 大)


 


 



【筆者プロフィール】


藤島 大(ふじしま・だい)


スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。著書に『ラグビーの情景』(ベースボール・マガジン社)、『ラグビー大魂』(ベースボール・マガジン社)、『楕円の流儀 日本ラグビーの苦難』(論創社)、『知と熱 日本ラグビーの変革者・大西鉄之祐』(文藝春秋)、『ラグビーの世紀』(洋泉社)、『ラグビー特別便 1986〜1996』(スキージャーナル)などがある。また、ラグビーマガジンや東京新聞(中日新聞)、週刊現代などでコラム連載中。J SPORTSのラグビー中継でコメンテーターも務める。


 

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