ラグビーリパブリック

天才児、伸びる。  藤島 大(スポーツライター)

2012.12.13

 もし自分が企業の採用担当なら、まっさきに高校と大学のラグビー部のキャプテンから入社してもらおう。かつてジャパンの方針がぐらぐらしていたころは、こうも思った。「どうせベストの布陣を編成できないのなら大学の主将経験者でチームをつくったほうが強いんじゃないか」。正確には「強い」というより「よいチームができる」のではないか。若くして責任の重さを担った経験は、チャンスとピンチにおける感受性を研ぎ澄まし、使命感と責任感を身体と言語で具体化する術を知っている。イングランドの大男あたりにゴール前まで押し込まれても集団として粘れるはずだ。



 12月9日。仙台。あらためて大学ラグビーのひとつの価値を見た。全国大学選手権プールCの日本大学は、随所に抵抗を示しながらも、ほとんど敵陣に侵入することなく、明治大に3-40で敗れた。まあ完敗だ。



 しかし背番号9、小川高廣は冷気に光を放った。日本大学のキャプテンである。紫紺の群れの執拗なからみにもラックのボールを素早くさばき、それだけでなく、パスを放る前に観察と判断を必ずまぶす。ハーフの真価は劣勢の試合にわかる。俊敏、果敢、機を見るに敏、簡単に述べれば、うまい。そして、ここが重要なのだが、うまいだけでなく、前述のように「使命感と責任感」を全身にたたえている。キャプテンだからだ。



 小川高廣は、東福岡高校時代、ちょっとした「バッドボーイ」だった。まあ、奔放で、いくらか生意気なところがあったのだ。満々の才能を有しながらレギュラーとなれず、花園にも控えのフルバックとしてわずかな出場機会しか与えられなかった。もちろん指導者が、そのタレントを見抜けなかったわけではない。「うまい」けれども「信ずるに足らず」。そう評価されたのだ。



 先日、本人が『ラグビーマガジン』に語っている。



「反省しています。だから大学では同じ過ちはしないぞ、と、そう思ってやってきたんです」(1月号)



 日本大学の加藤尋久HC(ヘッドコーチ)も明治戦後のロッカー室の前で「最初は他者(ひと)の言うことをまったく聞かなかった」と明かした。それが4年間で、堂々たるリーダーとなっている。キャプテンに指名したのは正解だった。



「きょうは1年間やってきたことを発揮するための戦い方については、こちらで指示はせず、キャプテンに任せました」(同HC)



 自陣からも独自の深いラインを敷いて、タックルとの間をいかして、判断をからめる。そんな理想のアタックを貫きたかった。小川主将はなんとかスペースを攻略しようと奮闘していたが、どうしても単発に終わる。結果としては、連続攻撃時の速さに欠け、的確な方向を突けず、ディフェンスの壁に向かって仕掛けずにパスで逃げてしまい、なかなかゲインはできなかった。



 それでも指導者に信じてもらい、みずからの意思で攻守を導き、レフェリーと真摯にコミュニケーションを図るキャプテンの姿はどこか崇高ですらあった。余計なお世話だが、高校時代の「天才児、眠る」を知る身には感慨があった。大学ラグビーの主将経験は若者を成長させる。多くの部員をまとめ、あるいは、あえてまとめずに突き進み、いずれにせよ結果を求めて濃密な1年を過ごす。それは凝縮された人生の時間だ。



 小川高廣は、東芝ブレイブルーパスへ進む。高校の2軍暮らしからトップリーグのトップ級チームへ。そのあいだには「日本大学ラグビー部の日々」が確かに挟まっているのである。


 


(文・藤島 大)


 


 



【筆者プロフィール】


藤島 大(ふじしま・だい)


スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。著書に『ラグビーの情景』(ベースボール・マガジン社)、『ラグビー大魂』(ベースボール・マガジン社)、『楕円の流儀 日本ラグビーの苦難』(論創社)、『知と熱 日本ラグビーの変革者・大西鉄之祐』(文藝春秋)、『ラグビーの世紀』(洋泉社)、『ラグビー特別便 1986〜1996』(スキージャーナル)などがある。また、ラグビーマガジンや東京新聞(中日新聞)、週刊現代などでコラム連載中。J SPORTSのラグビー中継でコメンテーターも務める。



 


(写真:日本大学キャプテンのSH小川高廣 / 撮影:BBM)

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