ロンドン五輪は、日本選手団の史上最多となる38個のメダル獲得で、競技は最後まで盛り上がりをみせた。
ボクシングの、ミドル級村田諒太の金メダルという快挙を報じた新聞の見出しの『48年振り』の活字に瞠目した。
そう……なのだ。いや、そうなのか。バンタム級の桜井孝雄が、ボクシング競技で日本最初のゴールドメダリストとなった1964年の東京五輪から、はや半世紀近くが経過してしまった、一種信じがたい時の流れに衝撃を受け、まさに、『光陰矢の如し』を思い知らされたロンドン五輪なのであった。
48年を経ても、筆者には、東京五輪の記憶は鮮明である。10月10日、開会式を待っていたかのように晴れ渡った東京の青空に、航空自衛隊のブルーインパルスが描いた五輪の輪のテレビ画面(白黒)を見て、即座に我が家の二階へ駆け上がり、窓から青空を眺めると、五色に染め分けられた五つの輪が見えて、緩やかにぼやけてゆく様を、確認することができた。
中3の10月に開かれた東京五輪に備えて、真夏の早朝、日比谷公園の列に並び、陸上競技のチケットを買い求めたことを思い出す。
当時、通学していた東京の目黒区立の中学校には、確か大会の2年前からだったと思うが、五輪の普及・支援の制度の一環だったのだろう、2名の体育の臨時教員が派遣されて来ていた。ひとりは陸上競技のスターターを務める紺野先生、もうひとりはレスリング・グレコローマン、ライト級で4位に入賞した藤田徳明先生である。
東京五輪の聖火リレーのランナーに母校から選ばれた、長距離走の一番速かった鈴木君を、在校生全員で応援に行ったところ、彼は、トーチを手にしたランナーの脇を走る伴走者のなかにいて、ちょっと残念な思いをした。当節の五輪では、選ばれたり、公募に応じたランナーの全員がトーチを手にできるように、複数の聖火リレーが同時に違うコースを走ったり、走る区間距離を短くして、リレーする方式が採用されているようである。
オリンピックの話となると止まらなくなるので、ここまでとしておきたい。
さて、東京五輪の年に、日本のラグビー界では、きわめて重大なルール改正が行われたのだった。それは、スクラムのオフサイドラインが、それまでのルールで定められていたボールの位置から、スクラムの最後尾のプレヤーの足の位置へと改正されたのである(スクラムハーフだけは従来のままボールの位置がオフサイドライン)。
現在のルールでは、スクラムのオフサイドラインは、スクラムの最後尾から、さらに5メートル後方へ下げる改正がなされていて、その主旨は、オープンプレイの推進ということ、つまりキックのプレイ選択が増えてきたアタックに、スペースを与えて、パス攻撃を増やし、ゲームを面白くしようというわけだ。
この1964年のルール改正も狙いは同じところにあった。日本では、多くの方が、この時のルール改正によって、ラグビーはまったく別の競技になったという主旨の証言を残している。
ところが、海外では、この時のルール改正の重大さに言及した文献もなければ、証言も目にしたことがないのである。この48年前のルール改正の国内外における反応の違いというミステリーの続きを、次回のコラムでも採り上げたい。
(文・小林深緑郎)
【筆者プロフィール】
小林深緑郎(こばやし・しんろくろう)
ラグビージャーナリスト。1949(昭和24)年、東京生まれ。立教大卒。貿易商社勤務を経て画家に。現在、Jスポーツのラグビー放送コメンテーターも務める。幼少時より様々なスポーツの観戦に親しむ。自らは陸上競技に励む一方で、昭和20年代からラグビー観戦に情熱を注ぐ。国際ラグビーに対する並々ならぬ探究心で、造詣と愛情深いコラムを執筆。スティーブ小林の名で、世界に広く知られている。ラグビーマガジン誌では『トライライン』を連載中。著書に『世界ラグビー基礎知識』(ベースボール・マガジン社)がある。
(写真:ロンドン五輪のボクシング男子ミドル級で金メダルを獲得した村田諒太/撮影:JMPA)