ソリー・チビリカ、カバンバ・フロアーズ、ヒルトン・ロバーツ、アシュリー・ジョンソンなど、南アフリカ代表キャップを獲得した非白人バックローは過去にも存在したが、辛口が多い南アのメディアやファンから、シヤ・コリシほど攻守両面で高い評価を受けた黒人ルースFWはいなかった。
所属するウェスタン・プロヴィンス(WP)の、2011年最優秀新人。今年、念願のスーパーラグビーデビューを果たした。2月25日、開幕ゲームのハリケーンズ戦でベンチ入り。主将のFLスカルク・バーガーが左膝を故障したため前半14分に入れ替わり、その13分後にいきなりデビュー戦トライを記録した。バーガーは長期離脱となり、翌週から「6番」はコリシのものに。レギュラーシーズンは5月のシャークス戦を1試合欠場しただけで、14試合に先発出場、総合1位でのプレーオフ進出に大きく貢献した。
5万人のホーム、ニューランズ・スタジアムで栄冠を掲げることができるかもしれない。それは、幼い頃からの夢だった。
黒人が多く住む東ケープ州ポートエリザベスの貧困地区出身。彼を16歳のときに産んだ母は、父とは別の男性と結婚し、新たに2人の子どもを授かったあと、コリシが15歳のときに亡くなっている。父親とも離れて暮らした。だから幼少期から、優しい祖母が懸命に育ててくれた。小学校の1年間の授業料50ランド(約500円)が払えないほど貧しい家庭だった。
だが、彼らの生活にはラグビーがあった。父も祖父も、おじたちも、地元のクラブチームでプレーし、シヤがプロラグビー選手になることが家族の夢だった。シヤ・コリシ少年は8歳から本格的に楕円球を持って走り、12歳の頃に出場したラグビーフェスティバルで東ケープ州の名門グレイ・ハイスクール(中学・高校)に奨学金付きでスカウトされ、貧困地区をあとにした。
突然のエリート街道。コーサ族が多く住む地域の出身だったため、当初はまともに英語を話せず、洗練された世界で、文化の違いに戸惑った。しかし、心からラグビーを愛していたコリシは仲間にも恵まれ、着実に才能を伸ばしていく。
U16南アエリートスコッド、イースタン・プロヴィンス地区U18代表、高校南ア代表、U20南ア代表と階段を上った。
当然、プロのスカウトも注目するようになり、2009年、フリーステート・チーターズとの3年契約にサインをした。が、当時17歳だったため無効とされ、あとから猛アプローチしたWPが獲得に成功した。WPファンだった父は喜び、自身もWPでプロ選手になることが夢だったシヤ・コリシは、憧れのボビー・スキンスタッドやジョー・ファンニーカークも着た、青白ジャージーに袖を通した。
だが、万事が順調に進んだわけではない。
2011年、U20南ア代表としてイタリアで開催されたジュニア世界選手権に出場。初優勝を目指して奮闘し、初戦のスコットランド戦で「マン・オブ・ザマッチ」に輝いた。だが、母国から緊急の電話が入り、慌てて帰国。WPの選手を中心に結成されるストーマーズが、スーパーラグビーの準決勝進出を決めたものの、ルースFWに故障者が相次ぎ、コリシに白羽の矢が立ったのだ。そして、準決勝クルセーダーズ戦のベンチ入りを告げられた。
しかし、当日のメンバーリストに彼の名前は載っていない。
コリシは試合数日前、地元で強盗に襲われ、金を奪われたあと言葉も発せられないほどボコボコに痛めつけられたのだ。肩と手首を負傷し、大舞台出場を逃した。
それでも、めげなかった。事件から数週間後に開幕した国内選手権カリーカップで大躍進。
今日の自分があるのはラグビーのおかげだと感謝する。コーチ陣は、ラグビーに対する彼の真摯な姿勢を高評価。しつこく繰り返すハードタックルが魅力的で、重心の低い走りはスピードもあり、力強いボールキャリアーとなる。ビジョンが広く、パススキルに優れ、持久力も備わる。ブレイクダウンでの勝負は発展途上だが、80分間のワークレートは高い。
今年5月末、新生スプリングボクス(南アフリカ代表)にコリシを選出しなかったハイネケ・メイヤー代表ヘッドコーチには批判が集中した。だが、若手有望株のひとりとして約3週間のボクストレーニングに参加。8月に開幕する南半球4カ国対抗戦「ザ・ラグビーチャンピオンシップ」で初キャップを期待する声は高まっている。
だが今は、スーパーラグビーの初優勝しか眼中にない。今年3月には、WPと新たに3年契約を交わし、50ランドを気にすることもなくなった。次の80分間を、ただひたむきに走るだけである。
ポジション: FL/NO8
生年月日: 1991年6月16日(21歳)
出身地: ポートエリザベス(南アフリカ)
身長: 187? 体重: 101kg
所属: ストーマーズ(ウェスタン・プロヴィンス)
※ 記事内のデータは、2012年7月27日現在