コラム

【森本優子コラム】強く野に在れ、サンウルブズ。

ブルズ戦勝利の後、記念撮影。ブリッツ主将はインタビューのため不在(撮影:長岡洋幸)

■スーパーラグビーから撤退することは、トップリーグを地域リーグに戻すのと同じこと。

「このチームは歴史を、カルチャーを創った」

 6月30日、シンガポール国立競技場でブルズを破った会見で、ヴィリー・ブリッツ主将は言った。

 スーパーラグビー参戦3シーズン、シンガポール7度目の挑戦にて初めての勝利。翌日の地元紙ザ・サンデータイムスは「FINALLY A WIN UNDER THE DOME」の見出しで伝えた。

 シーズン初の3勝目というだけではない、さまざまな意義が詰まった80分だった。

 ブルズ戦は日本代表のテストマッチ3試合を終えた後、再開第1戦だった。昨年の同時期は、南アでライオンズに7−94の大敗を喫した。先週、腰痛の手術のために戦列を離れたジェイミー・ジョセフHCは、再開後の遠征メンバーからリーチ マイケル主将はじめ姫野和樹、田村優ら代表3戦を戦った主力を休ませた。

 ブルズ戦に名を連ねたのはPR浅原拓真、FLコ永祥堯、SH内田啓介ら、日本代表でプレー時間の少なかった選手たち。それぞれが遜色のない働きを見せ、勝利に貢献し、チームとしての底上げが出来ていることを証明した。

 勝ち方にも意義があった。前半20分で14−0とリード。そのまま得点を重ねれば大勝もあったが、その後、連携不足もあり、10分間で2トライを奪われ同点に。前半終了間際には逆転を許した。

 後半も先に追加点を許し、一時は10点のビハインド。そこからしぶとく追いついた。再びリードを奪われたが、35分、入替で入ったラーボニ・ウォーレンボスアヤコのトライで振り切った。

 最終スコアは42−37。両チームあわせて9トライの乱打戦だった。ソフトトライもあったし、チャンスでのノックオンもたびたびあった。大事な局面で反則もあった。それでも最後は勝者となった。

 これまで日本が格上のチームに勝つには、一発勝負で照準を定め、ミスのない試合運びで逃げきる、という構図だったが、ブルズ戦の勝利はそこにあてはまらない。代表戦を含む連戦の中、いったんは相手に渡した試合の流れを、もう一度もぎとったところに、これまでの日本チームになかった逞しさを感じた。

 国からワンフライトで来られるため、南アのチームはシンガポールでの対戦を希望するが、東南アジア特有の湿気は、パフォーマンスに影響する。サンウルブズは過去2年、シンガポールで追い詰めた試合もあったが、そのつど、勝負どころでの相手の執念に振り切られてきた。

 ブルズの会見でハンドレ・ポラード主将は言った。

「お互いにチャンスがあり、サンウルブズがそれを活かしたということ。うちはブレイクダウンでプレッシャーを受けて、思うようにプレーできなかった」

 ジョン・ミッチェルHCは「この状況(汗で滑る)で、BKを使いす ぎた」と悔いた。まだ最下位ではあるが、サンウルブズに負けることは、とりこぼしではなくなった。それが昨年までと大きな違いだ。

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 2015年のW杯まで24年間、勝利に恵まれなかった日本代表だが、全く相手にならない戦いを続けていたわけではない。準備を重ね、相手に食い下がりながら、いったん流れを手放すと再びつかむことが出来なかった。2007、2011年とW杯で日本代表を率いたジョン・カーワンHCは敗戦後、しばしば「試合の大事な時間帯をつかみきれない」と言っていた。

 強いチームは、よくない内容でも勝ちきることが出来る。これまで日本はいつもその相手側、グッドルーザーだった。それが少しずつ変わり、よくない流れになっても引き戻せる力がついてきた。それがスーパーラグビー参戦の成果ではないか。

 少し話はさかのぼる。いまの日本代表の基盤を作ったのはトップリーグだ。創設は2003年度。それまで社会人は東日本、関西、西日本の地域リーグに分かれ、リーグ内総当たりで対戦。上位が年末年始の全国社会人大会に出場していた。たとえばサントリー対神戸製鋼のカードは、全国大会でなければ実現しなかった。組合せによっては、対戦すらなかった。それを宿澤広朗氏(故人)が中心となり、全国リーグの実現にこぎつけたのがトップリーグだ。反対意見もあったが、宿澤氏が押し切ったと聞く。

 それは1999年のワールドカップで、平尾誠二監督(故人)の下、十分に準備を重ねて臨んだ結果、全敗に終わったことがきっかけだ。

 トップリーグは当初の予定を1年早めて2003年度にスタート。試合数が増えたことで、日本ラグビー全体の底上げは出来た。だが、代表強化にはなかなか結び付かなかった。2007年、2011年大会と引き分けはあったものの、白星を挙げるには至っていない。勝利は15年大会のエディー・ジョーンズHC就任まで待たなくてはならなかった。

 日本がスーパーラグビーに参戦して3年、取材で海外に出て感じるのは、彼らがいかにハードな環境で戦わなくてはならないかということだ。

 長時間飛行機に揺られ、言葉も文化も違う国で団体生活。いわば異国を旅しながら、毎週真剣勝負に挑むのだ。トップリーグではアウェーといっても移動は国内。何より、1回の移動で1試合。精神的な負担は大きく違うはずだ。

 昔の人は言った。

 かわいい子には旅をさせよ。

 いま、その意味がよく分かる。スーパーラグビーでの体験は、快適ゆえに逆境を味わえない、国内ラグビーの「弱み」を補ってくれているのではないか。

 ブルズ戦後の会見でトニー・ブラウンヘッドコーチは言った。

「スーパーラグビーのレベルで戦うには、技術的なものはもちろん、メンタルタフネスが必要だ。今日はタフモーメントを戦い抜けた」

 快適なケージの中でしっかり育てられたトップリーガーが、スーパーラグビーに参加して、今度は野に生きる狼の逞しさを身につけつつある。

 スーパーラグビーへの参加は5年。その後は未定だ。だが、スーパーラグビーから撤退することは、トップリーグを地域リーグに戻すのと同じことだ。個人の参加では成し遂げることはできない。コ永や中村亮土は、サンウルブズで揉まれて成長した選手だ。チームとして参戦することで、より多くのプレーヤーが刺激を受けられる。

 世界と伍していくのか、それともドメスティックなラグビーに甘んじるのか。この数年が、日本ラグビーにとっての分岐点だ。

冷静に状況を読み、勝利に貢献した中村亮土(撮影:長岡洋幸)

試合後、場内のスクリーンには「また来年会いましょう」の文字が(撮影:森本優子)

【筆者プロフィール】
森本優子(もりもと・ゆうこ)
岐阜県高山市生まれ。83年、株式会社ベースボール・マガジン社入社。以来、ラグビーマガジン編集部で、定期誌『ラグビーマガジン』のほか、『ラグビークリニック』など多くの刊行物を編む。共著に『ラグビーに乾杯!』(画・くじらいいくこ)。ワールドカップ取材は1991年の第2回大会から。
RMワールドカップ2019ラグリパcolumn2