コラム

【藤島大 コラム】 一躍、国立の芝の上

伊藤剛臣。法政二高−法政大−神戸製鋼−釜石シーウェイブスRFC=6年目。
185センチ、95キロ(撮影:松本かおり)


▼しかし勝者の側にはラグビーに祝福された子がいて、迷わず臆せず存分に才能と闘争心を表現できた。


 こういう背番号8は、ニュージーランドにもイングランドにもトンガにも見当たらない。そこがよかった。
 
 伊藤剛臣、日本列島のナンバー8、引退。本稿締め切り時点で、所属する釜石シーウェイブスは今季2試合を残しているので、まだ過去形では書けない。「退」の字のあとに「へ」をつけるべきか。

 1971年、「マ」の字で始まるハンバーガーのチェーンが、東京・銀座に日本で最初の店舗を開いた時代、東京は日暮里で生まれた。46歳。トップの下のカテゴリーで、格別に珍しがられるわけでもなく、普通に戦っている。柔らかく、速く動き、高く跳び、強くて賢い。ジャパンのキャップ62。いつか、胸に桜のジャージィの8番が、ダイレクトアウトの楕円球を指先で拾い、前傾のまま弧を描き、右サイドを抜きにかかった。というよりタックルを置いてきぼりにした。海外のスタジアムの記者席で「ほら、見たまえ」と自慢したくなった。

 いけない。正確には、あと少しの時間、現役だ。
 そこで、ここからしばらく「1992年度の早稲田大学」について記したい。日本ラグビー史の最高の選手のひとりを称える追想のつもりである。

 あのシーズンの早稲田は、なんとかFWは鍛え上げたものの、BKは発展途上、唯一の決定力は、15番、最後尾の増保輝則であった。すでに日本代表入り。のちに本コラムの主人公と神戸製鋼において同僚となる際立つランナーだ。大阪府立牧野高校出身の小柄なフランカー、富野永和主将は、限られた戦力で大学日本一となる可能性をとことん探った。後年、本人と話すと、こんなエピソードを教えてくれた。

 シーズンも深まったところで、OBの大西鐵之祐さんを自宅に訪ねる。「どうしたら優勝できますか」。元日本代表監督の名将は答えた。「蹴って蹴って蹴りまくれ。今季の戦力ではそれしかない」。具体的にはこうだった。中盤でパントを上げる。なだれ込んで、つぶす。奪う。そのあとの発想がいかにも徹底している。「そこのラックからもういっぺん蹴るんや」。ゴール前へ。なんとかボールを確保、あるいは自軍投入のスクラム、ラインアウトを得る。「そしたら増保にパッと渡してなだれ込め」。理論を追い求めた「展開 接近 連続」の人は、また「なだれ込み」の威力を信奉していた。

 富野主将、小林正幸監督の早稲田は泥臭く道を進んだ。早明戦はどちらもノートライのまま12−24で敗れる。全国大会出場をかけてリーグ戦と順位タスキがけでぶつかる当時の交流試合で大東文化大学に25−22と競り勝つ。トライ数は1対3だった。新年2日の大学選手権準決勝では関東学院大学と対戦、双方トライなしの接戦を15−9で制した。

 いよいよファイナル。もう片側を勝ち上がったのはシーズン無敗の法政大学である。小気味よいオープン攻撃がさえ、準決勝で明治大学を退けた。予想は早稲田の不利。それなのに赤黒ジャージィの蹴りまくりは、ほとんどハッピーエンドを迎えるところだった。22−23。1点を追いかける残り6分。敵陣左ラインアウトからCTBが縦、ショートサイドに増保が走り込んで次々とタックルを落としてインゴール左隅へ。逆転。遠くにあったはずの栄冠はそこまで迫った。

 Gは惜しくも決まらず27−23。そして再開のキックオフ。オレンジとブルーのジャージィの細身の青年が、数年後には、ジャパンでも知られることになる仕草、袖を肘のところでせわしなくたくし上げる動作で次の瞬間に備えた。

 法政大学3年。ナンバー8。伊藤剛臣。若き日の姿である。
 右へ蹴り上げられたボールを追った。最初は大股、落下点を見きわめるや小刻みに足を踏んで巧みに調整、見事な跳躍から両手でのキャッチを成功させる。赤黒のヒットマンが背中に突き刺さるも、きれいに置いて、自慢のラインで左展開、背後へのキック、敵陣侵入を果たす。息絶えかけたチームは、あのジャンプによって蘇生できた。終了直前、右ラインアウト、やや幸運に早稲田陣へ流れた楕円球を、長身の新人ロック、藤原和也がつかみ、腕を伸ばして劇的なトライ、25年ぶりの優勝を遂げた。

 早稲田は、戦法を絞り、限られた布陣で勝ち進んだ。それはそれで立派だった。しかし勝者の法政にはラグビーに祝福された子がいて、迷わず臆せず存分に才能と闘争心を表現できた。いま40歳よりも50歳に近い年齢になって、あのころとは材質もデザインも様変わりしたジャージィをまとい、ときに別の競技のようにも感じられるモダンな攻防にへっちゃらで身を捧げる。うんと経験を積みながら、なお、国立競技場の芝の上を跳んだ青春の輝きをなくしていない。あの決勝の日に生まれた赤ん坊はもうすぐ25歳になる。ありがとう。東京の下町に育ち、神戸で暴れ、釜石でおのれを磨いた思慮深きファイターよ。
 
 最後に。2年前、東京・溜池山王の酒場で数人のささやかかな宴をともにした。そこはオフィス街であり中央官庁のビルも近い。あと数週間で44歳になる伊藤剛臣は、おもむろに席を立ち、直立のまま、いきなり他のテーブルの普通のお客さんに向けて大声を発した。

「日本の中枢の地で働くみなさん、本日もお疲れ様です。4年後には日本でラグビーのワールドカップが開かれます。どうか、よろしくお願いいたします」

 酒豪の本人は酔っちゃいない。それにしても「日本の中枢」が効いている。そこにいる誰ひとり不快には思わなかった。少し驚き、段々と笑いが広がった。

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1992年シーズンのリーグ戦。1993年1月の大学選手権決勝=法政対早稲田で、四半世紀ぶりの優勝へ駆け上がった法政のナンバー8(撮影:BBM)


【筆者プロフィール】
藤島 大(ふじしま・だい)
スポーツライター。1961年、東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。スポーツニッポン新聞社を経て、92年に独立。都立国立高校、早稲田大学でコーチも務めた。著書に『人類のためだ。ラグビーエッセー選集』(鉄筆)、『ラグビーの情景』(ベースボール・マガジン社)、『ラグビー大魂』(ベースボール・マガジン社)、『楕円の流儀 日本ラグビーの苦難』(論創社)、『知と熱 日本ラグビーの変革者・大西鉄之祐』(文藝春秋)などがある。また、ラグビーマガジンや東京新聞(中日新聞)、週刊現代などでコラム連載中。J SPORTSのラグビー中継でコメンテーターも務める。
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