伝説の男

20世紀最高選手といわれた伝説の男 コリン・ミーズ

コリン・ミーズ氏。NZの北島、テ・クイティに建てられた自身の銅像の前で
(Photo: Getty Images)

 多くの人から畏敬の念を抱かれていた巨大な木が、倒れた。
 2017年8月20日、ニュージーランドで20世紀最高のラグビー選手といわれたコリン・ミーズ氏が、1年におよんだ膵臓(すいぞう)がんとの闘いの末、亡くなった。81歳だった。

 同国ラグビー代表“オールブラックス”でチームメイトだったブライアン・ウィリアムズ氏は、「私たちは偉大な人物を失った。その人はすべてのキウイ(ニュージーランド人)にとって模範となる人だった。ラグビーのレジェンドというだけでなく、ニュージーランドにとって絶対的な象徴だった」と哀悼の意を表した。

 女子ラグビーワールドカップを戦っている最中だったブラックファーンズ(女子ニュージーランド代表)は黙とうと栄冠を捧げ、オールブラックスはレジェンドが亡くなって6日後のオーストラリア代表戦で右袖に「583」の数字が縫われたジャージーを着て戦った。それは、歴代583人目のオールブラックであるミーズへのリスペクトだった。

 オールブラックス歴15年。
 身長192センチ、体重約100キロだった伝説の男は、現代の基準サイズではロックとしては小さかったが、実物よりも巨大な男という印象を常に与えた。愛称は「パインツリー」。ニュージーランド・ヘラルド紙によれば、ミーズが1958年に23歳以下のニュージーランド代表として日本遠征をおこなった際、チームメイトのケヴィン・ブリスコーによって名づけられたという。ラグビー史上最高のハードマンとしても知られた彼の肉体と精神の強さを表現しており、堅い殻の幹で堂々とそびえる松の木を連想させたのかもしれない。同じく有能なラグビー選手だった息子のグリンは、パインコーン(松ぼっくり)と呼ばれた。

 コリン・ミーズは1957年から1971年にかけてオールブラックスとして133試合に出場。テストキャップは55で、11試合でキャプテンを務めた。2011年と2015年のワールドカップで栄冠を掲げた英雄、世界最多148キャップ保持者のリッチー・マコウと比較することはできない。ミーズの時代、オールブラックスが1年に4試合以上のテストマッチをおこなうことはめったになかったのだから。

 農地で毎日十数時間働くことがトレーニングだった。
 1936年、ワイカト地方のケンブリッジに生まれる。彼の家族はすぐにテ・クイティという小さな町に移り、農家の息子として育った。
 子羊を脇に抱えながら丘を走り、肉体を鍛えていったという逸話はあまりにも有名だ。本人は、病気の2匹の羊を抱えて小屋に戻そうとしていたところをカメラマンが偶然撮影しただけだ、と否定していたらしいが、ファーマーとして生計を立てながら、大力とスタミナ、強靭さを培ったのは間違いない。

 彼はラグビーマンとして最高の資質を体現していると広く考えられていた。
 スクラム、ラインアウト、密集でのバトルで激しくやりあい、スキルも高く、スピードとパワーに満ちた突進力は猛烈で、相手に恐怖を抱かせた。オールブラックスでの133試合で86得点。28トライとコンバージョンキック1つを記録している。

 ミーズをミーズたらしめたのは、その「ハードマン」ぶりだった。ラグビーがまだ牧歌的で殺伐とはしていない時代に、妥協を知らぬラフなスタイルを堂々と持ち込んだ。
 2017年7月1日のブリティッシュ&アイリッシュ・ライオンズ戦でソニービル・ウィリアムズがレッドカードをもらい、オールブラックスで史上3人目のテストマッチ退場者となったが、その50年前、1967年12月2日に敵地マレーフィールド(エディンバラ)でおこなわれたスコットランド代表戦で危険なプレーをしたと判定され退場処分を受けた史上2人目の不名誉なオールブラックこそ、ミーズだった。試合終了直前、ミーズはルーズボールを蹴ろうとしたが、そのボールを獲得しようとした相手選手を蹴ることになってしまい、アイルランド人レフリーにグラウンドを去るよう命じられた。ミーズは「これですべて終わりだ」と落胆したという。

 荒くれ者だが、彼はヒーローとも呼ばれた。その理由は、1970年の南アフリカ遠征にも表れる。イースタン・トランスヴァールと試合をした際、ミーズは腕を骨折したままプレーを続行していた。異変を感じたチームの医師が彼のシャツを切って骨折を確認したとき、ミーズは言った。「少なくともこの荒れた試合には勝ったぞ」。 常人ならばこれでプレーは不可となり、休養に入るのだろうが、彼は5週間以内にはグラウンドに戻り、薄いガードを腕に巻いて再び激しくプレーしたという。ミーズの強靭さに対する評判はいっそう強まった。

 そして、35歳のときに黒衣を脱ぐ。1971年、ブリティッシュ&アイリッシュ・ライオンズとのテストマッチ4試合でオールブラックスのキャプテンを務め、初めてシリーズ負け越しが決まった8月14日の引き分け試合がミーズにとっての代表ラストゲームとなった。

 1973年に選手生活を終えてからは、キングカントリー地域のラグビー協会チェアマンとしても活躍。選手発掘や育成、普及などに尽力した。
 しかし、1986年にニュージーランドラグビー協会を不快にさせたこともある。南アフリカが人種隔離政策で病んでいた時代、世界中がスポーツボイコットに動くなか、ミーズはその流れと反対の立場に立ったのだ。キャバリアーズ(非公式オールブラックス)のコーチとして南ア遠征に参加し、内外から非難された。あざとい興行を実行したにすぎないとの声もあるが、純粋に、彼を動かしたのはラグビーへの情熱だったと信じる者もいる。確かなのは、政治には、彼が愛するラグビーを取り上げる権利はなかったということだ。
 南ア遠征強行の結果、彼は代表セレクターの職を追われたが、やがて復権する。1992年にニュージーランドラグビー協会の評議員に選出され、1995年ワールドカップではオールブラックスの団長を務めた。

 ミーズは草の根ラグビーからインターナショナルゲームまで、人生のすべてでラグビーに関わり、サポートし続けた。国内のアマチュア選手たちが競う大会、ハートランドチャンピオンシップの優勝チームには、偉大なる英雄の名を冠したトロフィー「ミーズ・カップ」が贈られている。

 コリン・ミーズのファンクラブのメンバーは毎年、彼の誕生日になると「5番」のジャージーを着て集まり、英雄を祝して5オンスのビールで乾杯するという。現在、オールブラックスで同じ数字の背番号をつけるサム・ホワイトロックは、レジェンドが亡くなって最初におこなわれた試合のあと、尊敬を込めてミーズの家族に5番のオールブラックジャージーを贈呈した。

 オールブラックス現主将のキアラン・リードは、ミーズとの思い出をこう語っている。
「数回お会いしたことがあるが、彼はいつも、ビールを一緒に飲んで長話をするのが好きだった。ニュージーランドラグビー界だけでなく、世界のラグビー界において、彼は絶対的な伝説です」

 1999年にニュージーランドで20世紀最高の選手に選ばれたが、ミーズ本人は快く思っていなかったらしい。「われわれは全員でオールブラックス。誰がベターで、誰がベストなどない」。2009年に『ナイト』の称号を与えられたときも、「サー」と呼ばれるのを嫌った。それでも、彼は認めなければならない。コリン・ミーズは、最も尊敬された荒くれ者であり、多くに愛されたニュージーランド人だった。

 彼はラグビーだけでなく、慈善活動にも熱心だったのを国民は知っている。知的障がい児などをサポートする団体や、障がい児童ソサエティー、ニュージーランドラグビー財団など多くの組織を支援するため、講演会を開いたり、子牛を売ったりして数百万ドルを集め、寄付していたという。

 1974年に初版が発行された彼の伝記『Colin Meads All Black』は、ニュージーランド国内のスポーツブックとしては異例の6万部を超えるベストセラーとなった。

 亡くなる2か月前の2017年6月19日、コリン・ミーズが生涯を過ごした人口約4,500人の小さな町、テ・クイティの中心部に、彼の銅像が建てられ、除幕式に出席した。ミーズが公に姿を見せたのは、それが最後となった。

 レジェンドが天国へと旅立った日、勇ましくラグビーボールを持つ銅像のかたわらに、黄色や赤色の美しい花がたむけられ、全国の多くの家では、尊敬の念として、ドアの外にラグビーボールやブーツ、シャツなどを並べていたという。

 コリン・ミーズは、まじめで、勤勉で、温かく、ユーモアがあり、謙虚で、とても寛大だったと誰もが口にする。
 国のトップであるビル・イングリッシュ首相はこう称えた。
「彼は偉大なオールブラックだっただけでなく、まさに良きニュージーランドの男だった」

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亡くなったあと、ミーズ氏の銅像には多くの花やラグビーボールなどがたむけられた
(Photo: Getty Images)

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1967年のイングランド遠征でプレーするオールブラックスLOコリン・ミーズ
(Photo: Getty Images)
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