伝説の男

Colin Meads コリン・ミーズ(ニュージーランド)

 ラグビー王国ニュージーランドで永遠に語り継がれるであろう国民的英雄。愛称「パインツリー」は、1958年に23歳以下のNZ代表として日本遠征を行った際、チームメイトのケン・ブリスコーによって名づけられた。身長192センチ、体重102キロ。ラグビー史上最高のハードマンとしても知られた彼の肉体と精神の強さは、実物よりも巨大な男という印象を与え、堅い殻の幹で堂々とそびえる松の木を連想させたのかもしれない。

 

 1999年、NZラグビー協会の表彰式で20世紀最高の選手に選ばれた。だが、本人は快く思っていない。「われわれは全員でオールブラックス。誰がベターで、誰がベストなどない」。2009年に『ナイト』の称号が贈られた際も、「サー」と呼ばれるのを嫌った。それでも、彼は認めなければならない。コリン・ミーズは、最も尊敬された荒くれ者であり、最も恐れられたラガーマンだった。

 

 農家の息子として育ち、自身もファーマーとして生計を立てた。子羊を脇に抱えながら丘を走り、肉体を鍛えていったという逸話はあまりにも有名だ。真偽のほどは不明だが、農地で毎日十数時間働くことすなわちトレーニングとなるNZラグビーマンの古典的モデルだ。

 

 1957年5月18日のニューサウスウエールズ戦でオールブラックスデビュー。当時20歳。15年におよぶオールブラックスのキャリアで、133試合、55テストマッチに出場した。テストサイドから落とされたのはわずか2試合のみ(1959年の対ライオンズ、1962年の対オーストラリア戦。負傷欠場は1970年の対南アフリカ2テスト)。唯一にして絶対的存在だった。
 ミーズの真価は、密集での推進力と技術、スピードとパワーに満ちた突進力にこそある。ことに、ボールを片手でつかみ背を丸めた牛のごとき突進は、「恐怖」の感覚を相手はもちろん観客にもしばし与えた。

 

 ミーズをミーズたらしめたのは、その「ハードマン」ぶりだった。ラグビーがまだ牧歌的で殺伐とはしていない時代に、妥協を知らぬラフなスタイルを堂々と持ち込んだ。容赦ないやや暴力的なプレーは、外国メディアの批判を浴び、1967年のスコットランド戦では相手を蹴ったとしてインターナショナル試合史上2人目の退場処分を受けている。それは悪質ではなかったとの評もあるが、ミーズは「これですべて終わりだ」と落胆したという。いまでも写真に残る、ひとりグラウンドを去る彼の姿は、哀愁がにじむ。

 

 荒くれ者だが彼はヒーローと呼ばれた。その理由は、1970年の南アフリカ遠征にも表れる。イースタン・トランスヴァールと試合をした際、彼は腕を骨折したままプレーを続行していた。異変を感じたチームの医師が彼のシャツを切って骨折を確認したとき、ミーズは言った。「少なくともこの荒れ試合には勝ったぞ」。 常人ならばこれでプレーは不可となり、休養に入るのだろうが、彼は5週間以内にはグラウンドに戻り、革製のガードを腕に巻いて再び激しくプレーしたという。

 

 1973年に現役引退してからは、キングカントリー協会のチェアマンとしても活躍。選手発掘や育成、普及などに尽力した。そして、1986年のキャバリアーズ(非公式オールブラックス)南アフリカ遠征ではチームの団長を務め、内外から非難を浴びたこともある。南アフリカが人種隔離政策で病んでいた時代、世界中がスポーツボイコットに動くなか、ミーズはその流れと反対の立場に立ったのだ。あざとい興行を実行したにすぎないとの声もあるが、純粋に、彼を動かしたのはラグビーへの情熱だったと信じる者もいる。確かなのは、政治には、彼が愛するラグビーを取り上げる権利はなかったということだ。南ア遠征強行の結果、彼は代表セレクターを追われたが、やがて復権する。1995年ワールドカップではNZ代表の団長に就任した。

 

 コリン・ミーズのファンクラブのメンバーは毎年、彼の誕生日になると「5番」のジャージを着て集まり、英雄を祝して5オンスのビールで乾杯するという。NZラグビー協会も彼が残した功績を忘れてはおらず、国内選手権2部リーグに相当する「ハートランド選手権」の勝者には、偉大なる英雄の名にちなみ、「ザ・ミーズカップ」が贈られている。

 

 

 

ポジション:LO/FL/NO8

生年月日:193663日(74歳)

出身地:ニュージーランド(ワイカト地方、ケンブリッジ)

身長:192cm

体重:102kg

国代表歴:オールブラックス(55キャップ)

 

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